メロンダウト

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少子高齢化社会についての思案~灯台を失った社会~

いよいよ少子高齢化に伴う人口減少が始まろうとしている。内需は本格的に縮小しはじめ、労働人口が不足し、実質購買力の低下(スタグフレーション)とともに日本市場は衰退しようとしている。
 
下記ツイートは日本の総人口と生産人口の推移を示したものであるが、高齢化とはいえ横ばいだった総人口も5年後を目途に一気に減少し始めると予測されている。それに伴い生産人口も減り続け、今までのようなインフラを維持することすら困難になるかもしれない。

 

今さら悲観することでもないのだけどこのような未来がすでに確定しているのだろう。これから奇跡的に少子化が改善されたとしても、生まれてくる子供が生産活動の担い手となり経済活動を行うまでには20年以上の歳月を必要とするため、今の成人は目減りしていく経済の中で生きていくことは避けようがない。
こうした状況を見るに、みながお金を貯蓄に回すようになることも確定しているため、デフレマインドはむこう30年は続いていくことになる可能性が高い。
根本的に少子化を改善し、人口という体力を取り戻さない限り、市場はシュリンクし続けていくことになる。それは何十年も前からわかっていたことではある。それでも僕達は少子化を改善することができなかった。政府の無策や産業構造改革の失敗など少子化には様々な論点があると思うけれど、仔細は置いておいてそもそもなぜ僕達はここまで子供を産まなくなったのだろうかを思想的に捉えたほうが良いのではないだろうか。
 
マクロではネガティブな指標ばかり出てくる社会であるとはいえ、現実には子供を育てる環境は日々改善されており、産休育休の拡充・子供手当・教育の機会平等・子供食堂体罰の禁止・保育園の増設など昔と比べれば子供は大切に育てられるようになっている。そのための制度も充実していっているように見える。少子化になればなるほど子供は社会にとって貴重な存在になっていき、子供を大切に育てようとする社会的合意はたしかにあると感じている。それはとても良いことだと思う一方、いくら環境や制度を整備していこうとも出生率の改善は見られないどころか下がり続けている。それもまた事実である。
そこで問題になってくるのが制度や環境を改善することと出生率はどこまで相関しているのだろうかということである。
 
かなり一般に「出生率は子供を育てられる環境を整えれば改善する」と言われているが、この手の言説は不十分ではないだろうか。というのも「子供を育てられなければ産めない」が事実である一方、育てるための環境や制度が「個人のもの」に閉ざされていればほとんど意味をなさないからである。
原理的に考えた時、僕達が子供を産む時に何が最も大きな障壁かを考えるとそれはつまり「自らが死ぬ」ことにある。僕達は子供を産んで、だいたい子供より早く死んでしまう。多くの場合、子供だけが残されることになり、その点で子供にたいし全面的な責任は負い様がない。たとえ子供が成人しても生まれた時に抱える疾患その他により自立して生きられない人生を歩む人もいる。そのような状況でも親が健在であれば良い
(良いというのは大変語弊がある言い方になるけれど、親が健在であれば出生にたいする責任という観点からは産んでも構わないという倫理を導くことができるため、障害その他が産むという選択を阻害する問題には程度としてならないため、産んでも良いと考えることができる)
しかしそうはならない。僕達は死んでしまう。したがって問題を抱えている人でも生きていけるような社会インフラのもとに子供を産むという決断が初めて可能になる。
つまり個人のための制度とは言い換えればその人が生きている時間に限定されたものでしかないのである。そのため、出生とはその責の一部を外部に仮託してこそ可能となる行為であると言える。その「外部」が生きている東京や沖縄などでは出生率が踏みとどまっていることがそれを証明している。(東京は資本が外部たりえていて、沖縄はコミュニティーが生きているのだと考えられる)
 
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出生時だけでなく、子育ての時期に関しても僕達は外部を必要としている。たとえば単純に親が不慮の事故にあって子育てが困難になる可能性だってある。個人で子供を育てるというのはあらゆるリスクを伴うもので、そのために福祉その他の社会インフラが必要となるのであるが、そのような緊急避難的な制度だけでなく、もっと大きな枠で「自らが死んでも子供は大丈夫」という概念的な基盤が必要とされているのではないかと思うのである。
個人にたいして制度や環境を整え子育てしやすい社会にすることも大変重要なことであるけれど、どんなに充実した環境を親に与えようともとどのつまり親が事故に遭えばそれで終わってしまう。
そのぐらい一個人というのは危うく、儚い存在なのだ。その危うさは決してなくなることはない。ならばたとえ親がいなくなっても子供が生きていける社会や共同体があればこそ、子供を産むという選択が可能になるのではないだろうか。その前提がすっぽり抜け落ちてしまったのが今の出生を取り巻く「思想環境」のように見えるのである。
みな「自分が社会に適応できる子供を育てよう」と考えている。しかし「社会が自分の代わりに子供を育てる」という、無責任かに見えるセカンドオプションがあればこそ、社会と親が相互補完的に連携し、子供を育てることが可能になる。そのためには福祉その他の制度的なものだけではなく、もっと大きな意味での「大文字の社会」が必要とされているように思うのだ。
 
しかしながら僕達はここ数年で社会と個人を切り離してきてしまった。振り返るに僕達は個人主義社会を形成し、みなが自由な個人として生きるようになって以降、個人主義をほとんど完全に内面化してきた。そして出生までも個人主義という枠組みで捉えようとしている。そこに一切の無責任さが介在することを許さない。そんな雁字搦めの思想に囚われてしまっている。
 
たとえば僕達は子供を育てる時には「個人(親)の年収」をことさら重要なものとして考えている。近年話題の親ガチャにまつわる議論に関しても「親の年収がいくらであれば~~~」という統計により、人生のネタバレみたいな感じで言われることがある。それは一定程度事実なのであろう。しかしそれを事実たらしめているものが何かということが考えられることはほとんどない。
事実なのであれば「僕達はより高い収入を得て、子供に良い教育を受けさせ、より高度な文化資本を身につけさせて幸福に暮らしてくれるよう準備するべきだ」と、そのように考えるしかないのであるが、当然ながら人の人生は事実により規定されるほど単純なものではない。よくよく振り返ってみれば親ガチャという言葉で自らの人生を説明できる人などほとんどいないはずである。
とはいえ親ガチャが事実なのも否定できることではない。なので親ガチャは直視すべき問題ではある。しかしそれは解決不能な問題ではないはずだ。親ガチャのような社会的な統計は結果でしかないので、結果がおかしいのであれば社会の様相を変えるべきだという議論がなされるべきである。親の年収と子供の人生の相関が高くなっているのであれば、その理由は僕達が個人に分断されていることに起因していると考えることができる。親が子供に与える影響力が強くなっているとは言い換えればその他の人々が与える影響が少なくなっているという仮説が成り立つ。
したがって親の年収と子供の人生が相関しないようにするため、メリトクラシーその他の今ある個人主義的な観念そのものから離脱しなければならないと、そのような議論が構築されるべきである。
また、子供を他者と近づけさせないという議論も社会と親を分断するものとなっているので、「子供を他者に近づけるのは危険だが必要なもの」という形で再構築すべき議論だと考えられる。これは社会の側にとっても必要なことで、感情的にも子供と触れあうことで自らも子供を産もうとモチベートされる人はかなり多いであろう。しかし子供と他者を近づけないことにはそうした動機付けは生まれようがない。それが少子化を加速させているという見方もできる。
 
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あるいは経済的な観点からも個人主義から脱するべきである。
個人の年収とはつまるところ経済活動の上澄みでしかないので、企業がそうしているように共同体を組織し、経済のレートをあげて個人の年収がすべてだという価値観から離れるべきなのだ。普段の仕事からでも個人の年収が経済活動全体からすればいかに微弱なものかはわかる。たとえば10tトラックは新車で買うと一台2000万円以上するけれど、それを個人で所有できる人はほとんどおらず企業というプラットフォームに乗ってはじめて大型トラックのドライバーは生産活動を行うことができる。自社のトラックであれリースであれ変わることはない。人間は一人では何もできないのだ。
どんな仕事であれ企業が融資を受け、設備投資をし、取引先と提携し、その結果雇用が生まれ労働者が働けるという相互依存により経済は回っている。個人の年収はその経済活動全体からすればほんの上澄みでしかない。したがって子育ても経済活動のように共同体のもとに信頼を構築し、借金をしてそのレートをつりあげ、相互依存的な関係のもとで経済活動とすることで年収という「上澄みがもつ権威」を引きずり下ろすべきだと言える。
ようするに子供を「収入で育てるのではなく売り上げに巻き込む」という形をとれば年収がいくらかということは程度として問題にはならなくなる。年収で1000万円あったとしてもそれ以上の売り上げの中小企業などいくらでもあるわけで、経済活動の流動性から見れば年収などたいした金額ではないとそのように捉え返すことができるはずだ。
具体的にはたとえば単純に実家の資産や祖父母の年金などを子供を育てるための勘定に入れても良いし、はなっから親だけで子供を育てるというのを放棄して寄合的なもので子供を育てるという選択肢があっても本来は良いはずである。もしくは斉藤幸平さんが提唱しているようなコモンズを噛ませても良い。そのぐらいのドラスティックかつ無責任な方策が必要な段階まできているように思うのだ。
 
しかしながらこのような無責任かつ放任的な子育て論が言われることはほとんどない。識者と呼ばれる人々であればなおさらである。けれどおそらく多くの人は個人で子供を育てるということがどれだけ困難なものかを理解しているのではないだろうか。能力が高く、マルチタスクに長けている人であれば子育ても回していけるかもしれないけれど、多くの人はそう感じることはないはずだ。それは能力の問題だけでなく経済的な側面からも個人の年収で子供を育てるというのが本来無理筋のものであるともっとはっきり言うべきであろう。まずもってそんなことは無理であると。
 
 
いずれにせよ少子化の議論の根幹にあるのは個人という単位の問題であり、そのために僕達は年収や親ガチャという観念に閉じられている。
子供、あるいは人間そのものが社会にとっての財産だという合意があればどんな環境であれ、どんな人間であれ存在そのものを肯定できるものだと、あくまで理想主義的にはそのように考えることができるのである。
具体的な方策はその理想を補完するものでしかない。理想というなんら役に立たない空想こそがむしろ本体であるべきなのだ。経済が信頼という空想を主軸に回っているようにである。
その理想を概念的なレベルで外部に設置し、灯台とすることで、個人という儚い舟がたとえ沈んでしまい子供が海に放り出され困難に見舞われたとしても、すくなくともそこに道標はあるのだと、そう考えることができるのではないだろうか。
 
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現実的に考えた時、僕達の能力や年収には限界がある。
ならば企業のように親という単位を程度として入れ替え可能なものとし、社長が急死したとしても存続しうる共同体を子育ての礎とするしかない。実際、はるか昔から子供はそうやって育てられてきた。それをやめたのはつい最近のことなのだ。それでも僕達は個人主義をやめることができない。ならばせめても子育ては無責任でかまわないというある種のダブルスタンダードを甘受するしかないはずだ。さもなければ市場はこのまま縮小し、親ガチャでSSRが出たとしてもまったく無意味なものになりかねない。
 
僕達は灯台を失くした。そしてできるだけ大きい舟に乗ろうとしはじめた。しかしその船を支える経済力までも失ってしまえば動力そのものを失くし、難波船となるのは必至である。
船のことはもういい。高性能にしすぎて出力オーバーである。
灯台にあかりをともせ。今すぐに、である。