メロンダウト

メロンについて考えるよ

無敵の人などいない。はっきりとそう言うべきだと思う。

無敵の人などいない。はっきりとそう言うべきだと思う。
 
最近、京王線の事件を皮切りにテロ行為に近い事件が起きている。また、無敵の人と関連して社会のサスティナビリティーが話題でもある。たにしさんとシロクマさんが書いていた記事を読み、事件を見て、すこし無敵の人とやらについて考えてみたい。
結論から言えば先に書いたように無敵の人などいない。そう考えている。
 
一般に無敵の人と呼ばれる人が行う犯罪といわゆるテロリズムは違うことをまず確認しておきたい。同時多発テロやISISといったイスラム原理主義者が行うテロは宗教性が強い。アメリ同時多発テロで飛行機をジャックした人間もグローバル・ジハードの御旗のもとに救済されると信じていたと言われている。ISにおける少年兵に関しても幼少期から「そういう人間」に仕立て上げることで戦闘員になっていく。行為の残虐さとは別に彼ら彼女らは世界や他者と交わる思想を持ち、関係性に殉じている。アルカイダやISといった人々は「間違った関係性」の果てにテロ行為にはしる人々であるが、日本におけるテロはすこし様相が違う。
日本でもテロ事件はたくさん起きているけれどよほどサディスティックな個人でない限り、事件を起こす人物を定義するとすればほとんどの人が孤独であるということだと思う。中東における関係性のテロとは違い、日本では関係性の喪失によりテロに走る人々がいる。それはたとえば京王線で事件を起こした犯人が「人間関係がうまくいかなかった」と供述していることもそうであるし、古くは秋葉原通り魔事件の犯人も唯一の居場所であった携帯掲示板になりすましが現れたことが犯行の動機だと述べている。日本ではオウム真理教以降、関係性によるテロはほとんど起きておらず、無差別の人を狙った犯罪はほとんどが孤独を原因としたものである。
テロ行為だけを取り上げて社会を語ることはあまりにも拙速ではあるけれど、いわゆる個人主義が加速していった社会環境とテロ行為は連動しているように見える。オウム真理教における地下鉄サリン事件が起きた時にはまだ個人主義化はそこまで進行しておらず、携帯電話などの個人に特化した連絡手段も普及していなかった。良きように言えば共同体が残っていた時代ではあるけれど、ゆえに関係性が暴走した宗教テロも起きたと言える。しかしそうした関係性が消失していくと僕達は個人になった。あるいは個人ー個人の関係でしか繋がらなくなった。関係性は個人の目的に純化し、関係性が人を繋ぐのではなく人が人を選択し関係するという逆転現象がつまり近代個人主義社会だと言えるだろう。
 
 
しかし、しかしである。
僕達は個人では産まれてこない。個人の選択で生まれてくるわけではない。両親、あるいは単親のもとに勝手に生み落とされるのが人間ではある。どんなに幸福な環境に生まれようがどんなに不幸な環境に生まれようが望んで生まれてくる人はおらず、誰もが何も知らず産まれてくる。人は誰しも孤独だという言葉があるけれど、そうではなく、人は誰しもが関係性によって生まれてくる。この点で「生」は予め関係性に組み込まれているとも言える。しかし個人主義が徹底された社会だとこうした「先の関係性」は出生の瞬間にしかない。昔のようなコミュニティーに特化した社会であれば生き方すらも関係性に埋め込まれていたものであるが、ほとんど全員が自由に生き方を選んで良い個人主義社会になると関係性そのものをなくした瞬間に「どうして良いかわからなくなる」のだろう。
自由主義というのは出生が選択的ではない以上、不完全なものである。自由は実存を捉えない。それでもなお自由に生きていかなければならないけれど、「自分が選んで生まれてきたわけではない」という原理原則にかえると、孤独になった瞬間、なにがしかの関係性に意味を見出すしかなくなるのだろう。普段は所与の連続した関係性の中でそれを生きる意味だと考えているし、自由という名の元にそうした後天的な関係を幸福だと疑いなく信じている。しかしそうした関係性から離れた瞬間、ゼロから関係性を決定するしかない。なんの関係性も持たなくなった瞬間に自由の危機が実存を襲い、出生時の何も知らないゆえに何も大事ではない状態に帰ることになる。
人間を規定することは時に暴走した関係性を引き起こしIS的なテロに走ることがある。しかしいま僕達が直面している危機は違う。それは自由という「何も言われない」「何も規定されない」「何も大事ではない」「何をどうしても良い」状態に原因がある。何をどうしても良いというのはテロを起こしても良いということと同義ではある。自由とはつまりテロを起こしても良いと書くと批判されるだろうけれど、仕事や人間関係の中で生きている僕達は自由の原義的な意味を実のところ何も知らないのではないだろうか。自由とは語義そのままに捉えれば赤子をそのまま肯定することであり、赤子が大人の力を持った瞬間にどれほど危険であるかは想像に難くない。
 
そして、こうした自由の危機に直面した人が抱える最大の問題は出生と違い「先の関係性」がないことなのだろう。生まれてきた時には両親の言うことを聞いていれば良いけれど、大人になって孤独になってももう両親はいないのだ。関係性によって規定されるべき「生」が真の意味で自由になることでテロすらも肯定しかねない。
 
僕達が生まれてきた瞬間を覚えていないように、僕達は自由が意味するところを想像することすらできない。おそらく、テロ行為に走る人の心理も本当のところわからない。社会環境や人間関係といった要素により分析はできるだろうけれど当人がどういう心理状態であるかは肌感としては知りようがない。言ってしまえば自我以前の状態に戻ることに近いはずで、それは想像することはできても実感としてはわかりようがないと思う。
こうした言説はテロリストにたいして同情的に過ぎる見方と言われるかもしれないし、実際に事件を起こした人が関係性から完全に見放されているとは言えないケースもあるだろう。しかし秋葉原通り魔の加藤がそうだったように、とてもささいなきっかけで瞬間的に完全な孤独に没する人もいるのだと思う。日本ではまだ社会的な空気の圧力が強く、「先の関係性」は自明なものとして機能しているとも言えるけれど自由には危機がつきまとっている。それを加速させればテロの危険は前近代とは逆の意味で加速することになるはずだ。それには注意してしかるべきだろう。
 
こうした大人の暴力を未然に防ぐのには社会的包摂が必要でところかまわず「あなたは一人じゃないよ」と伝えていく必要がある。たぶん僕達にできることはそれだけだと思う。今更自由を手放して前近代的ムラ社会を復活させるのは不可能であるし、良いこととも言えないであろう。それでもなお共同性や関係性を手放したことで迎え入れた新たな危機を僕達は直視しなければいけない。そのように思う。
無敵の人といった呼称でテロリストを社会の外に位置付けることは容易いけれど、前近代のテロリストのような偶然の関係性によってテロに走る人とは違い、みなが自由を内面化している社会にあっては、関係性から見放された瞬間にテロリストになる可能性を誰しもが持っている。
 
ゆえん無敵の人、などいない。自由主義社会にあってみなが「無限に開かれた生」を生きており、それを規定するものが希薄になっている限り、誰しもが「赤子の無限性」「真の自由」に帰る可能性がある。無宗教とはつまり無規定な生をそのまま肯定することであるが、宗教の残滓がある今はまだそうした危機が少ないのかもしれない。しかし自由がこれ以上行き過ぎると一気に逆に振れてもおかしくはないであろう。その始まりが昨今の一連の事件だと、そう思い返す日がこないことを祈りたい。
 

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※たぶんこうした「なんでもありの実存」ゆえに社会のサスティナビリティーも危機に陥っているのだと思う。自由が出生の関係性を忘れさせるという意味で。けどちょっと長くなったので別の記事で書けたら書こうかなと思います。