メロンダウト

メロンについて考えるよ

大人になれと言う大人がいない問題、あるいは逆算的一般論の重要さについて

先日の記事で「人の暴言をネットに晒すのは大人のやることではない」という主旨のことを書いた。


自分の記事を自分で批判するのもどうかと思うのであるが、誰かにたいして「大人になれ」と言うのは空々しいものがある。現実でもインターネットでもほとんど言ったことがない。大人や子供という区切り自体、あまり意味がないものではあるはずだ。誰々が子供だ(大人だ)と言うことはあまり褒められたものではない、とすこし反省している。ごめんなさい。


しかしこの「大人になれ」という言葉は様々な物事を考える材料にもなる。せっかくなのでそのあたりを書いていくことで、先日の記事の供養になれば良いかなと。

 

前提としてあるのがここ最近、僕達は誰かにたいして大人になれと言わなくなったことだ。

理由はいろいろあると思うけれど、そのひとつに「自分で自分のことを大人であると思っている人」がほとんどいないことがあげられる。
現実に大人と呼ばれる年齢になろうともできないことのほうが多く、知らないことのほうが多いものではある。歳を重ねれば重ねるほど知らないことが増えていくし、バイタリティーもなくなって様々なことにたいする好奇心や吸収力も衰えていく。

幼少期、10代、20代、30代と感度が落ちていくのは人間の条件ではあるのだろう。それを嘆いたところでしょうがないのではあるが、それでも蓄えた知識や経験を駆使し、「なんとか大人をやっている」というのが多くの人の実情ではないだろうか。

大人になればなるほど自分が未熟であると日々痛感するのが、一般的な成人の姿であるように思う。若い時のほうが全能感に溢れていたりする。実際、大人になってから学生時代にもっと勉強しておけば良かったと後悔する人はかなり多い。大人とは若者よりもあるいは不全なのである。

ようするに大人であろうとも自らが大人だと考えている人は多くない。そのため、他人や子供にたいして大人になれと言う人は少ない。自分が大人だと自覚していない人が他人や子供にたいして大人になれと言うことは自らを棚上げした言説になるためだ。

したがって先日の私のようにいざ「大人になれ」と書いたりすると、途端に白々しい感覚に襲われる。何を言っているんだ、そんなに大人じゃないだろお前と、そう自問自答する羽目になる。


しかしながら同時に、僕達が大人になれと言わなくなったのはここ最近のことではないかとも思うのである。以前はもっと大人になれが言われていた。直接的に大人になれと言われたこともあるし、「明文化されていない大人になれ」が空気として強かったように記憶している。

実際、子供の時に感じていたのは「いずれにせよ僕達は大人にならなくてはいけない」であった。
大人になったらゲームも漫画も卒業し、「なんだかよくわからない大人とやら」になるんだろうなというイメージがあった。もちろんそんな自動的に大人になるなんてことはなく、仕事や雑事に追われる日々の中でなんとか大人をやれているのかなというぐらいのものである。成人しても漫画を読むし、ゲームもやるし、子供みたいにくだらない話をすることがある。それは子供の時とまったく同じことでしかなく、世代がそのままスライドしてきたかのように錯覚することすらある。大人などどこにもいなく、20代・30代・40代・50代という「世代が大人と呼ばれるようになる」だけなのではないかと、そう考えてしまうほどだ。


そして、おそらくそれは昔の人も同じだったはずだ。ただ昔は今ほど自由な社会ではなく、子供にたいしては大人になれと言うことが大人の責任であると考える人が多かったのだろう。当時の大人はそうした社会的責務に従っていたに過ぎなかったのではないかと思うことがある。子供の遊びとされていたゲームやオタクカルチャーにたいして理解がなかったのも、大人≒我々の世代がやるものではないという「世代観」ゆえだったのではないだろうか。さらに言えば今のようにインターネットで情報が多角化された世界ではなく、メディアはもっと単線的なものだったことが想像できる。
そうして出来上がった空気によって「大人になったらゲームを卒業するんだろうなと考える子供」がつくられたわけであるが、その子供が大人になれば今度はゲームが一大産業になるという、ただその循環があるだけだったりするのだろう。次の時代には別の世代が大人になり、新しい社会をつくっていく。そうした中で大人になれという言葉は具体的な意味を持たない言葉であるように思う。


しかしあえてというわけでもないが、かつて大人になれと言われた人間として思うのは、大人になれという言葉は抽象的には意味があるのではないかということだ。具体的にはほとんど意味がない。けれど抽象的には意味がある。それを思い出しても良いのかと考えている。

 

ゆえん大人になれという言葉は具体的な意味を持たず、自らを棚上げした言葉であると書いたわけであるが、しかしそう書いてみたところで「大人とは何か」と考えてしまう自分もいるわけである。
大人という概念・記号はいくら考えたところで答えが出ない代物ではある。結婚したら大人であるか、経済的に自立していれば大人であるか、職場で指導的立場にあれば大人であるか、ゲームを卒業すれば大人であるかという問いを立ててみたところで、何かを達成すればすなわち大人であるという解にはいきつかないものではあるだろう。

自らが大人であると自認しても世の中にはさらに大人の人がいて、そうした無限の比較をしてみたところで答えには辿り着かない。厳密に言えば答えが個別に発散しているのでこれが大人だと一般化して言うことはできないというほうが正確かもしれない。大人という言葉に実態はなく、みな現実に生活(役割的大人)があるだけである。なので大人とは何かと考えるだけ無駄であり、目の前の事をやるほうが大人になることには近づくと、経験的にはそのように思う。

ここで書きたいことはただ単純に、みなそれぞれ生活実態(大人への道程)が違うので、これが大人であると具体的な経験から一般化して言うことは原理的にできないということだ。
具体的な経験から大人とはなんであるかという答えに辿り着くことはできない。


それでもなお大人という抽象的概念、その言葉が生み出す無限の問答・比較級は逆算的には意味があるのではないだろうか。
たとえば「インターネットに人の悪口を書くことが大人であるか」という問いをたててみる。上で書いたものは結婚や自立といった具体的事象を積み上げていって大人になろうとする方法であるが、逆に抽象的概念により具体的事象を判断してみる。すると大人という言葉が持つ別の側面が見えてくる。
具体的事象を積み上げていき、大人とはなんであるかと考えても答えは出ない。しかし逆説的には必ずしも答えが出ないものではない。つまり抽象的な大人という概念で具体的事象を照射した時、案外簡単に「人の悪口を書くことは大人のやることではない」と言えるはずなのだ。
「僕達は大人が何であるかを知らない。どれだけ積み上げていってもこれが大人であると言えたものではない。しかし人の悪口を書くことは大人ではないということは言える。」

これはよく考えてみると奇妙なことである。

一般にインターネットに人の悪口を書くのは大人のすることではないということは多くの人が同意するところであるが、しかし世の中にはインターネットに人の悪口を書いて大人をやっている人もいるわけである。具体的事象を積み上げて大人になろうとする時、インターネットに人の悪口を書くことは方法としてなくはない。悪口も突き詰めれば毒舌としてビジネスになり、果てにはご意見番のようなポジションに収まることができるかもしれない。したがって悪口は個別具体的なレベルでは否定できるものではない。悪口を言う才能に恵まれた人も現実にはいる。しかしながら多くの人が好き勝手に悪口を言い始めたらあまり良い社会とはならない。悪口とはたとえばかつての有吉弘行氏など選ばれた人のみが駆使しうる特技として認識すべきものなのだろう。それ以外の人々は人の悪口を言わないことで社会を回していくほうが良い。

したがって具体的なレベルでは「悪口は大人のすることではない」と言うことはできないが、抽象的には「悪口は大人のすることではない」と言うことができる。

つまり大人になれと言うことはこの抽象性にこそ意味があるのだろう。そしてそれは物事を逆算的に捉えた時にこそ、その真価を発揮する言葉なのである。
このような逆算的一般論を構築するのが大人になれという言葉が持つ社会的な意味なのではないだろうか。

 

具体的事象→抽象的概念という理路を辿れば大人になれという言葉は無限の選択肢や比較に回収され、ほとんど意味をなさない。しかし抽象的概念→具体的事象という形で物事を捉えれば大人になれという概念は社会的な意味を持つ言葉になる。大人になれと誰かに言うこと・言われたことはおそらくはそういう風に機能するものなのだろう。

ようするに大人になれという言葉は具体的なフェーズと抽象的なフェーズとで分けて考える必要がある。そしてその抽象性が抜け落ちてしまったのが今の社会なのではないだろうかと、そう思うのだ。

大人になれという言葉、その抽象性は僕達の社会から日に日に失われていっている。

誰かにたいして大人になれと言うことはある種の欺瞞や自らの棚上げ、事によっては嘘を含まざるを得ない言説であるため、現在のような白黒はっきりした科学的言説が良きものとされる社会ではほとんど言われることはない。大人ってなんだよと即座に返ってくるのがオチである。さらに言えばみな自由にやりたいことをやるというのがむしろ一般に言われることであり、大人になれと言うことは自由を阻害する呪いにまでその地位を落とした言葉である。


その結果、抽象的概念として機能していた大人になれという言葉、その役割が消失し、社会から逆算性及びその逆算性から生じる一般論が失われたのがここ数年の社会の変化だと、そう言えはしないだろうか。

 

一般論が消失したので個別論ばかりになり、その結果起きている問題は実際のところかなり多いように見受けられる。

最も大きい問題で言えば大人になれという一般論がその地位を失くした結果、玉座が空き、「具体的に何を一般論にするか」という競争が始まってしまったことであろう。皮肉にも僕達が大人になれと言わなくなり、一般論を失った瞬間に、最も一般論めいたことが議論されるようになったのは偶然ではない。ある程度の常識や、抽象度の高い一般論が社会の中において支配的であれば、個別の一般論はほとんど意味をなさないものであるはずだ。しかし僕達はいまや個別の具体的な一般論に付き合う必要性に迫られている。

しかし上述したようにそれらの具体的な理念は社会的には機能しないのだ。個々人の生き方や考え方としてであれば具体的なものは機能するが、一般論として機能するのはもっと抽象的で意味不明な大人になれという非科学的なものだったりする。

 

みな個別具体的なことをひろってきてそれが大人であるか事後的に判断するという方法を取っている。しかし本来僕達がやるべきことは抽象的概念から個別具体的なことを捉える事前の逆算性であるはずだ。何をしたらどうなるのか、何を言ったらどうなるのか、何が大人のすることであるかということを、ある程度一般的なものとして社会が持っていてこそ皆が他者を信頼できるようになり、社会が穏やかになる。もちろんその事前性は自由を阻害する呪いであってはならないものの、個別具体的なレベルで形成された自由な大人観だけを採用すれば別の個別性と衝突することになるのは明らかなわけである。
僕達は個々の具体的な経験を大事に育てる必要がある一方、それを普遍化してはならない。しかし同時にその普遍化を抽象的には持ち続ける必要がある。その両義性に耐えるべきなのだ。さもなければ大人と子供の垣根自体が消失し、社会が混乱することは必至であるからだ。


それを事前に防ぐために大人になれと抽象的に言う必要があったのだろう。たとえその言葉が嘘や欺瞞や呪い、あるいは自由に反する悪であったとしても、その悪には役割があったのだと、そのように振り返ることができるのである。

 

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以上のようなことを考えると善悪という概念も分けて考える必要が出てくる。真善・偽善・真悪・偽悪の4つである。大人になれという言葉はようするに偽悪に属する言葉であるのだ。
そして偽悪を真悪と一緒くたに悪として分類してしまったのがポリティカルコレクトネスの罪ではないかと思うのであるが、いかんせん長くなり過ぎたので後日にしたいと思います。と言って後日書いたためしがないわけであるが(笑)

結論だけ書いておくとつまり今この場で悪と判断できるものがすなわち悪であるという保証はなくて、人の為になる悪もあるのではないか、大人になれと言うことは悪を演じているだけなのではないか、そしてその悪がどこかで必要になるのではないか、果てにはその言葉が財産になる時がくるのではないかと、一瞬立ち止まって考えてみても良いのではないかと思ったのである。