メロンダウト

メロンについて考えるよ

雑文

いやもう昔のようにかなり雑に書いていくけれどみんな本当にこれでいいと思ってるの?生娘の件に関して
声をあげた女性とか、人権感覚とか、コンプライアンスとかそれっぽいことを言ってるけどようするに世論で殴り殺しただけでしょ。いつからか声をあげることが良いことみたいになってみんなで声をあげましょうと言ってるけど、全員が全員声をあげて悪事や失言を世論で殴り続けたら地獄になるよ。私のような交友関係がそこまで広くない人間でもキャンセルしうるだろう話はいくらでもあるわけで。たとえばある芸能人が未成年の時にタバコを吸っててその写真が昔のPCに入ってたりするし、中学の時に知的障害がある同級生をいじめて不登校にしたやつが今では地方で町おこしをやってて、別の中学の同級生と飲みに行くと「あんなやつがおこした町なんか住みたくねーよな」なんて話してたりするわけだけど、それを世論に問うことは明らかに行き過ぎた結果をもたらすのでやらないわけだよ。自分だって間違ったことをしたことがあるし、ここで書けば人が離れていくだろう過去もある。多くの人はそういうものを飲み込んで生きてるのに、それらを逐一あげつらってインターネットの海に放流してたらほとんどみんながキャンセルされる事態になりかねない。キャンセルカルチャーを支持してるリベラルエリートやはてなブックマークの方々はやんごときなき環境で育てられ間違ったことをしたことがないのだと思うけれど、多くの人間は大なり小なり間違うもので、それをみんなで飲み込んで、見て見ぬふりをしてなんとか社会は回っている部分があるのだと、まこと愚かな自分なんかは思ったりするわけだよ。それでも声をあげるべき時はあるけれど、それは個人で飲み込めない事態に限定すべきじゃんじゃないの。たとえば自分ひとりではなんともならない性犯罪や社会問題として取り上げるべき長時間労働技能実習生・保育園の不足など。その他の誰かが失言した、だから声をあげてみんなで指弾しましょうとかそういうものを世論(大人)に問うことは善悪判断がつかない子供のやることであろう。今回の件に関しても相手の言っていることが間違っているのであればその場で指摘すれば良い。講座生であればセクハラやパワハラのような力関係でもなかろう。その場で指摘できない子供の駄々を親である世論に報告し、真面目にうけとって話すその方法論自体が相当ナンセンスに見える。
というか会社名と実名を紐づけられる状態で特定個人が暴言を吐いたとインターネットに投稿したらどうなるかを想像してないのが最も恐ろしいのだ。結果への想像力に乏しく、力加減を知らない子供の無邪気さに似ている。長年の恨みがあるようなパワハラやいじめなどであれば、世論に訴えかける「動機を理解できる」が、初対面の相手の失言をインターネットに投稿するというその躊躇のなさが子供のそれであるのだ。
 
人権感覚やそれっぽいワードを出して糾弾してるけれど、そもそもなんの被害も発生していないわけで、ようするに声をあげた女性がびっくりしたというだけでしょ。無論、自社の商品の格を落としめるような発言をしたことを社内で追及され、その結果解任されても不思議ではないが、それは人格や企業風土ではなく当人の能力の問題として処理されるべきものであるはずだ。単にそれだけのことを人格や企業風土やコンサル業界の体質にまで話を広げて解釈するのは明らかに行き過ぎている。吉野家は直前にどんぶりの件があったので「そういう企業風土」として確信して話してる人が少なくないみたいだけど、「そういうもの」という推論のほうこそ差別なのでは?
相手が法人だから差別が許されるなんてことはないわけで。吉野家の社内の人はいまごろ「そういう人」だと思われてないか内心でビクビクしてる。そういう被害・差別を受けてるんじゃない?で、その差別を贖うためのキャンセルは誰に科されることになるの?という話に当然なるわけで、なぜ自らが常に断罪する側でいられると思うのか。そこからして不思議でならないのだ。人を呪わば穴ふたつではないが、誰かを社会的に抹殺するのであれば自らが殺されても受け入れるしかない。差別やキャンセルといった因果を全面的に適用するのであれば、吉野家の社内の人を差別している人は今すぐ社会的に自殺すべきという話になるわけで、そんな世界じゃ安心して暮らすことができないでしょ。ものすごく普通に。
事の発端となった女性は講座内容にびっくりして一足飛びで人権感覚という話に持っていってるけど、マーケティングは少なからず人間を駒として取り扱うものだったりする。シャブ漬けというワードセンスが不適切だったことはたしかだけど、マーケティングがある種の人心操作的な側面を含むなんてそれこそマーケティングを受講する講座生ならば事前の了解として持ってるものだと伊東氏が認識しててもおかしくはない。言葉使いや認識の齟齬があるにしても、シャブ漬けという「表現のガワ」だけを切り取って言葉狩りするのはあまりに短絡的である。相手が言葉使いを間違うかもしれないという余白を与えていない点で相手を人間として扱っていない。したがって指弾してるほうこそ人権感覚とやらが欠如しているのでは?
なんにせよ実名を出してネットで糾弾するということの意味をみんな忘れているのではないだろうか?おそらくこれから伊東氏は様々な仕事を断られ、失言ひとつでキャリアを失うことになる。40人程度の閉鎖された空間にたまたまいた「「「人権感覚が欠如した女性」」」のせいで。それが正しいことであるはずがないであろう。
 
しかしなんでこんなことになったのか振り返るにmetooの影響が大きいのではないかと思われる。あれから声をあげる女性を神格化しはじめるようになった。
metooが盛んだったころ、女性が声をあげることは勇気がいることと言われていた。実際そうなのだろう。権力者によるセクハラや性犯罪を指弾することは勇気がいることだ。けれどあれは性犯罪のことであってインターネットやメディア空間全体をmetooにしてはいけない。すべてをmetoo的に指弾し始めたら声をあげた側が無謬となり、それは一足飛びで相手を社会的に抹殺するにまで至ることになる。まして相手が企業であれば法人格を守るために社内の人はどんなにくだらないと思ってても炎上には対処せざるを得ない。そこにつけこんでみんなで言いたい放題言って気持ちよくなってるわけだけど、明らかに間違っている。民意を反映させるべき政治家はキャンセルされる時はキャンセルされるべきだけど私企業にまでそれを波及させるのは、世論の危険性をほとんどわかってない感じがする。世論を断罪システムとして採用すればしかるべき量刑をやすやすと飛び越え、相手を社会的に抹殺するまでに至ってしまう。
どんな人間でも犯罪をしたら相応の報いを受けるべきではあるが、生娘シャブ漬けと言うことは犯罪ではない。犯罪ではないし社会問題でもない。したがって世論が問うことではない。仮に私人の発言を取り締まろうとするのであれば選挙を通じて立法というプロセスを経て取り締まれば良い。別途、声をあげた女性が精神的苦痛を受けたのであれば民事裁判をおこせば良い。以上終了、である。企業風土や人権という関係ないことまで広げて指弾することは世論に乗じた差別主義者のやることであろう。
 
何が怖いかってこういうことを続けていたら逆に声をあげるべき時に声をあげても意味がなくなるのではないかということにある。
社会も馬鹿ではないのでそのうちインターネットの危険性には気づくし、多くの人はキャンセルカルチャーにたいして懐疑的な視線を向けるようになる。キャンセルカルチャーはまだその影響力が限定的で、民間人には波及していないけれど、私人にまで波及するのは時間の問題であろう。みんな今のところ他人事として、ネタやニュースとして消費しているに過ぎない。しかしそれが自らに降りかかるようになった時、人々がどう思うかこそを考えなければならないはずだ。キャンセルカルチャーのような人治主義が加速して法律とは別の処罰が科されるようになればみながその危険性を認識し、果てには逆に振れる可能性がある。つまり声をあげた側のほうが悪であるという世界になってもおかしくない。そうした人々の恐怖が民主主義を通じて情報統制や報道されない自由のようなものに変化していくのは自然なプロセスであろう。実際、侮辱罪の厳罰化など抽象的なレベルでの言論統制はすでに始まっている。それが加速し、ネットの検閲が始まり、本格的な言論統制にならないとなぜ思えるのだろうか。
言論が統制されれば声をあげること自体が難しくなる。そして声をあげるべき時に声をあげることができなくなる。それが最も恐ろしいことであるはずだ。
言論は消費財であり、言論の自由は薄氷の上にある。民主主義は自明ではない。したがって民主主義=世論を行使する時には相応の覚悟を持ち、しかるべき時に使い、しかるべき声をあげることが大切なのではないか。ましてや実名を出して個人を批判する時であればなおさらである。