メロンダウト

メロンについて考えるよ

「ノイズキャンセリングソサエティー」

LGBT理解増進法が衆議院を通過したみたいです。

 

自民党保守派から反対の声が上がっているのは当然のことながら

リベラル側からも

「全ての国民が安心して生活することができることとなるよう留意するものとする」という条文に「この場合において、政府は、その運用に必要な指針を策定するものとする」との条文を加えたことが問題視され批判されている。

「全ての国民が安心して生活することができることとなるよう」の部分を読むと、LGBTは依然として多数派への配慮を要求される性であると読めるので実質的にはこれまでと変わらないように読める。また、「この場合において、政府は、その運用に必要な指針を策定するものとする」という条文も問題が起きたら都度政府や行政が対応するこれまでのシステムとあまり変化はないように読めるため、リベラルから批判されるのは当然ではあるのだろう。

保守からはLGBTという「特殊な性」を国家が容認することにたいして批判され、リベラルからは実質がなく中身のない法案として批判されているのが今回のLGBT理解増進法となっている。

 

 

すべてに配慮しようとして落としどころを探った結果、なんにもなっていないというのはいかにも日本的と言っていいのかもしれない。

 

思い出すのが5年前に小学校で道徳が必須科目になった時のことだ。当時、小学校の道徳教材に何を記述するのかが話題となった。「国威発揚的な愛国心を記述するのは安倍政権による洗脳教育」「教育勅語の復活」「何が良いことかを記述すれば逆説的にいじめに繋がりかねない」のような話があったのをうっすらと記憶している。教材に記述される店をパン屋から和菓子屋に変えたら文科省の検定を通過したという話もあった。そしてそのような動き全般にたいする批判があり、道徳教育そのものにたいする疑義も呈される事態となっていた。

道徳教育が廃止される前は「修身」や「天皇主義」が道徳として教えられていたみたいであるが、現代は何を価値とするかを言明することができない。そうした、すべてに配慮しようとすると何も言明することができないことこそが現代の道徳が置かれている立場なのかもしれない。

 

 

なにかをやろうとすると逆側の勢力から批判が入り、結局のところ実がない法・道徳という玉虫色の結論に着地する。さながらノイズキャンセリングのように、聞こえてくる騒音にたいし逆位相の音をぶつけてキャンセルするような事態が政治の現場ではしばしば見られる。騒音が聞こえてきた時に自動的に音が中和され、耳に残るのは「静けさ」だけというのはなにか日本社会の様相を表している気がしてならない。

 

昨今ではSNSによって人々の声が可視化されたこともあって「うるさい社会」だという向きがある。右・左はもちろんのこと男・女のような勢力がタコツボ化し、エコーチェンバー(同調反復)がしばしば問題として取り上げられる。

しかしながら全体として見れば社会は静かになってきている。それはある「騒音」「意見」にたいしてほとんど自動的に批判が入ることでその意見が中和されているからだと、そのように言うことができそうである。つまり、あるテーゼが社会に提出された時にすぐさまアンチテーゼが入ることで「テーゼとアンチテーゼ双方の位相がかき消える」というのがSNS社会の実相なのであろう。

表面的には対立が過激化し、社会が分断されていっているように見えるし、そのような問題が無視できないことは間違いないが、しかしより高次に捉えた時にはむしろ「人々の声がうるさくなったことで逆説的(中和的)に静かになった」というように見えるのだ。

 

すべてが相対化されるとその相対化はテーゼもアンチテーゼも許さなくなり、ただ静けさや大人しさばかりが肯定されるようになる。大きな話にすると民主主義の極致とも言えそうだけれど、一昔前のメディアが大きな影響力を持っていた時には良くも悪くもメディアが「世論」をつくっていた。そしてメディアが言うことがテーゼであるという前提があってこそアンチテーゼが機能していた。安倍政権が長期化した=テーゼになったからこそアベやめろがアンチテーゼとなっていたようなものである。しかしそのような構造は陳腐化した。マスゴミやアベやめろと言うことで人を集められるような時期が一昔前にはあったが、いまやそのような古い構造にもとづく言説に耳を傾ける人は稀である。

SNSが普及すれば、すべてがメディアになることでテーゼとアンチテーゼの境界線は消え、どちらがテーゼなのかという前提は失われる。すべてがテーゼであると同時にすべてがプロパガンダであり、すべてが政治的になり、そしてすべてが相対化されることによってすべてがかき消え、ただ静けさだけが残る。

言い換えれば意見という人為的なものは単なる誰かの考えや感想としてキャンセルされていき、社会は社会だというトートロジー、その自明性だけが残っていくようになる。その自明性を壊そうとアンチテーゼを提出しようとしてもそれも逆側の位相をぶつけられキャンセルされる。おそらくその果てには社会が自然のように扱われ、その自然に適応することばかりが残っていく。再アニミズム化とも言えそうである。

 

個別に見れば確かにSNSは社会をかしましくした。しかしそのかしましさは全体として見れば社会を静かにしている。それは中道や平和の実現という点で見れば望ましいものであるように見えるが、しかしなにか問題が起きた時や価値を決定「しなければならない」時には見えない(聞こえない)壁として立ち塞がっているのかもしれない。

LGBT理解増進法はそうした「逆位相によってキャンセルされた結果できた静かで玉虫色の法案」と言えそうである。

 

 

※蛇足

おそらく以下の記事で書いたルッキズムの綱引きに関しても同様で、双方が全力で引っ張っているのに当の縄自体は何も動いていないというのがあらゆるところで起きているのだと思う。

plagmaticjam.hatenablog.com

 

援用すれば恋愛もそうだと思う

plagmaticjam.hatenablog.com

 

恋愛離れと言われるものも恋愛をやめたというよりは恋愛にまつわる古い価値観(童貞は云々・貞操観念は云々など)である未規定性・ノイズが批判され中和された結果として「静かになった」というのが実際のところではないだろうか。

 

若者の保守化であったり、公園で球技するのが禁止になったり、他にもいろいろあるけれど、双方が引っ張った結果静かになったと同時にテンションがかかり妙な緊張感が走っているのがいわゆる閉塞感と言われるものではないかと疑っているのだが、完全な推論なので話半分程度で流してくださると幸いです。