メロンダウト

メロンについて考えるよ

「この指とめよう」批判撲滅キャンペーンとリベラルの独善性

一般社団法人 「この指とめよう」

指一本で、

人は人を追い込むことができる。

だから、指一本で、

人を救うこともできるはずだ。

 

いやまあ普通に考えて指一本で人を救うことができるわけないのだけど、こういうのがウケることがリベラルのなんたるかをよく表しているなと思う。実態をすっ飛ばしてコピーライティングによって動員をかけ連帯する集団憐憫の極致みたいなものに成り下がってしまったんだろうな。本当に残念だと思う。リベラルは本来こういうものじゃなかったはずなんだけどそんなこと言っても今やむなしく響くだけである。

「誹謗中傷が駄目」は普通に考えて正しいのだけどもはや正しい正しくないの議論ではなくなっている。リベラルのそれは。よく注意して見るべきだけれど、正しさを言い出す人って正しいことを言うことが本人にとって都合が良いことがほとんどだったりする。

誰にとってその正しさが都合が良いのか考えればわかりやすいけれど、こういうのはネットを中心に活動しているインフルエンサーにとって都合が良いだけのことなんですよね。「この指とめよう」に名前を連ねている人達を見てもほとんどが社会的にグッドなポジションにいて彼ら彼女らはもう上にあがった人達なので大衆が自由に批判できるような言論空間は必要ないのでしょう。発信さえできればそれでいい人達が真面目に正しさについて考える動機はない。にもかかわらず正しさをひっぱりだしてくるのは何故なのかは「彼ら彼女らのマーケティングのため」だったりする。はあちゅう氏をとって見てもSNS初期に炎上でバズらせて相応のポジションについたからネガティブなコメントはもう必要ないのでしょう。

普通に考えて誹謗中傷が駄目なのは誰でもわかるけれど、誹謗中傷が駄目と言った瞬間に批判的言説も同時に封じ込めてしまいかねない。誹謗中傷と批判は紙一重で、それが誹謗中傷に見えるか批判に見えるかは単に本人の体調の問題だったりする。あるいは、はてなブックマークのように個々のコメントは適切な批判であってもそれが群をつくっているように見えた瞬間に誹謗中傷に化けることもある。批判と誹謗中傷はそれほど明確に線引きできるものではない。それこそ受け手側の心証ひとつで誹謗中傷になってしまう。言葉とはそれほどあやふやなものだったりする。リベラルは受けて側が感じたお気持ちが真実というわけのわからない信念を持っているので、誹謗中傷についてもそれを受け取った側がそうだと感じれば誹謗中傷だと言うのでしょう。ハラスメントの問題にしてもネットの誹謗中傷にしても被害者の心証がすべてな世界線でみんな生きているわけではないのだよ。

 

別な視点からも批判を入れておくと「この指とめよう」のサイト上で木村花さんの事件を例に出しているけれど、「死ねば被害者になれる」という信念はものすごく危険なものである。そして死ねば被害者になれるような「心証だけの世界」を正当化するような言説も許されていいことではない。被害者になれば心証ひとつで世界を御すことができるなんて世界を木村さん本人が望んでいたのだろうかと僕なんかは思う。あるいは彼女がそれを望んでいたとしても個人の信念を世界のルールとして敷衍していいはずもない。彼女の自殺は不幸な事件だったのは誰もが理解するところであり、それにたいして社会が応答することも時に必要であろう。しかしながら個人の体験は原理的に特殊なのでそれを社会にインストールすることは慎重に考えるべきだという意見もあって然るべきではないだろうか。もちろん木村さんに向けられた誹謗中傷は許されていいことではない。それでもなお彼女の死にたいして「応答しない」ことが彼女にたいする敬意だったりする。

 

リベラルの道徳的世界線は考えが極端に浅いものが多い。「この指とめよう」もそうで、繰り返しになるが、普通に考えて指一本で人が救えるはずがない。それこそコピーライティングとかで考えるべきではないものまでも短文化してシンプルな結論に着地させようとする。ハッシュタグなどその典型であるが、ハッシュタグで連帯してコピーライティングを御旗にして政治を展開するなんてリチャード・ローティが見たら絶望すると思いますよ。本来のリベラルはそういうものではないのだから。

誹謗中傷がいけないなんてみんなわかっているし、実際にやっているのは極めて少数の異常者であることはデータでも出ている。そういう異常者にたいしてリベラルの連帯が届くかと言ったらまずもってそんなことはないでしょう。

 

リベラルエリートが大衆を統治するために道徳を持ち出して批判を封じ込めようとする一方で自民党保守も「批判なき政治」を行い、利権を守ろうと躍起になっている。どちらも自らに向けられた批判を独自の信念で回避していることは変わらない。自民党保守は「現実的」「現場主義」などで批判をないがしろにし、リベラルは心証によって自身に向けられた言説を批判か誹謗中傷か取捨選択し、自由に選び取っている。そうして右と左に関係なくあらゆる批判が封殺されていくことになった。もしくは批判しても意味を為さない社会になった。その結果として批判すること自体が「痛いこと」になり、政治に参加する人はいなくなったのである。右も左も対抗勢力を批判してみたところでお互いが独自論法を駆使し、批判を批判として受け取ることはないのだから何も変わることがないのは自明であろう。

 

以上のように「この指とめよう」も誹謗中傷撲滅キャンペーンとして打ち出したところでその内実はリベラル的な道徳規範に基づいたものになっている。そのような独善的な態度が支持されることはない。木村花さんの死を持ち出してリベラルの肥やしとすることは普通に考えて下卑た発想であり、彼女の自由意志を勝手に推論してキャンペーンを張ることは自由主義のそれとは真っ向から反することになぜ無自覚でいられるのだろうか。理由は自明であり、リベラルがもはや「自由」に興味がないからであろう。リベラルの行動原理は道徳的啓蒙により大衆を統治することで彼らの安全圏を守ることだけになっている。それが時に自由や民主主義的な言論空間に反していようがもはや、関係がないのである。