メロンダウト

メロンについて考えるよ

弁当と数と幽霊とインターネットと津田大介氏

キッチンDIVEにて酔っぱらっいが暴れた事件でネット上を中心にソーシャルジャスティスが絶賛発動中だけどいつからかこういう小競り合いにたいして発言すること自体を躊躇うようになった。

 

事件の動画を見るに暴言を吐いている人を糾弾したくなる気持ちはよくわかる。善悪で判断した時に彼の行為が悪であることは間違いない。それとは全然別の議論として動画をネット上で拡散し社会的制裁を加えることに違和感がある。悪人であれば社会的制裁を加えることは問題ないという考えは法治国家の在り方に反しているわけだが、最近はこういう光景が当たり前になりすぎて誰も問題にしなくなった。昔はもっとカウンターとしての意見があったように思うけれど、そんなことは誰も言わなくなり、イザコザを罰するネットの社会的機能は日常として回収されてしまった。そしていつからか悪人を糾弾することになんの躊躇も持たなくなった。粗暴な悪人は社会の地平にさらし、数の暴力によって罰していく。そういった例が後を絶たない。

 

当該事件に関して、個々の人間は単なるニュースへのコメントとして書いているし、リツイートに関しても犯人逮捕のために拡散しているに過ぎないとみんな考えているのだろう。しかしながら、それらの小さなコメントや懲罰感情が集まった瞬間に暴力になる側面を忘れてやしないだろうか。炎上や私刑に関してのみならずいま問題となっているのは「数の力」を自覚している人がほとんどいないことのように思える。僕達は個々の人間であると同時に群れの中の一人であるが、その意識がかなり希薄になっている。あるいは希釈されている。

ツイッターはてなブックマークをとって見ても、個々の人間がコメントやリツイートをした時に、そのコメントは個人の意見として見るべきだというのが建前としては主流であるが、実際はそうなっていない。本人にそのつもりはなくとも書いたコメントは時に群れをなし、彼の意図を超えて暴力となる。さらに言えば、群れの中で個人の影響力は希釈されているので群れの責任を問うべき主体が存在しなくなってしまう。SNSはじめコメントを書くサービスが人気なのもそのコメントの属人性が絶妙に希釈される「幽霊性」ゆえだと言えるだろう。

そんな状態なのでみながコメントをやめないし、あるいは表現の自由と思っているし、もっと言えば自分がしたコメントが誹謗中傷になるなんて微塵も考えていない。さらにはコメントを向ける対象が悪人であればそのコメントは正当なものであるとさえ勘違いしている。こうした構造にたいして僕達はあまりにも無自覚にインターネットを使っているのではないだろうか。そんなふうに思うようになった。

関連して言えば最近、はてなブックマークの人気コメントアルゴリズムが変更されたと運営が発表した。

アルゴリズムを改善して健全なサイトにするのは良いが、誹謗中傷の問題はコメントの内容云々ではなく群体性そのものにあるので、いくらアルゴリズムを変更しても根本的な解決にはならないように思う。ベターなものにする運営の努力が無駄だというわけではないが、コメントを主体とするサービスは「数の論理」から逃れようがない。

政治的主張でも疑似科学でも人生相談でも何でもかまわないが、間違った内容の記事を書くと「それは違う」といったコメントで埋め尽くされることになるが、批判的コメントの「羅列そのもの」が筆者にとっては誹謗中傷に見えてしまう。間違った内容に適切な批判がはいるのは正しい。しかしながら議論が間違っていることと筆者に間違いを告げることは全然別のフェーズのものだったりする。はあちゅう氏がアンチを訴えているのもこうした構造と無関係ではないであろう。彼女に向けられた批判が適切であろうともあれだけの批判が彼女に向けられればそれを誹謗中傷と感じてしまっても不思議ではない。フェミニストである石川優実さんなども被害者意識に苛まれているように見えるけれど、彼女も数にやられてしまった一人なのかもしれない。いずれにせよそれが群を成した瞬間にそのコメントは書いた本人の意図した「以上のもの」に飛び出してしまう。

 

今回の弁当屋の事件も同じ構造を持っているように思う。お店の中で暴言を吐いている人を叩くコメントは正しいわけだが、それが群をなした瞬間にそれ以上のものへと言葉は変質する。暴言は良くないというものすごくベタで普通の言葉でさえ群をなした瞬間に「彼を悪人だと社会的に認定するためのランドマーク」に変わり、あまつさえ犯人にたいしてスティグマを与える言葉になる。

インターネット上に何かを書くことは数の一員となることと不可分な行為であり、自分の言葉がそれ以上のものへと変質する危険性を常に孕んでいる。だからと言ってインターネットで発信するべきではないと言いたいわけではないが、すくなくともそうした自覚を持つべきではないだろうか。つまるところインターネットの問題はそのほとんどが数の問題と言って差し支えないように思う。言葉が完璧に属人的で個人的なものだと考えられるのであれば誰もネット上の誹謗中傷で苦しんだりはしない。「それ」は数を持った瞬間に群体としての承認を得ているように見えて無視できないものになる。

その意味で最近話題の「この指とめよう」は不完全な標語であって、厳密に言えばこの指が集まった手によって人の心は握りつぶされていくのである。

 

 

インターネットが数に特化しはじめてみんなフォロワーを集めだしたのもこうした構造と無関係ではないであろう。いまの時代に最も強力なものは数であり、みんなとにかくスケールを拡大しようとしてフォロワーを集めている。政治的には動員や連帯などが代表的であるけれど、いまや数が承認の証左となってしまっている。数が承認の源泉となりうることは精神分析かなにかで書かれているのでしょうけど、それを知らなくても数に狂っている人はネット上のあちこちで散見される。人が数に狂っていくことはおそらく間違いない。

政治的な話で言えば右と左が共に先鋭化して数を集めるという同じ戦略を取り始めたことにも関係しているが、数を集めれば自説が政治的に承認されているかのように勘違いすることができる。数を集めるというネットの承認構造そのものが政治までも左右しかねない。そんな身も蓋もない社会に僕達は生きているのだろう。

名前を出してあれだけど、たとえば津田大介さんが極端にレフトに振れてしまったのも150万人いるフォロワー数の問題も大きいのではないかと思っている。150万人もフォロワーがいてなお政治的なバランス感覚を維持しようとすると超人的な胆力が必要なのだろう。それだけのフォロワーがいればリベラルな社会と完全に同化してしまっても不思議ではない。政治的バランスを保とうとするとフォロワーにとって耳が痛い話もしなければならないし、仮にうまくバランス感覚を伴った発言をしたとしても150万人もフォロワーがいれば批判もくる。僕がメディアで見聞きしていた限り、津田さんはそうした批判や数の論理に耐えうる胆力がある人には見えない。良くも悪くも普通の人なのだろうけど、普通の個人が数に飲み込まれて先鋭化するのは自然な成り行きなのであろう。津田さん本人ももう何を書いているのかよくわかってないんじゃないだろうか。いわゆる「普通の人」が数に飲み込まれるとフォロワーにとって耳触りの良い多様性や女性の人権だったりの世間一般の「正しい事」しか言えなくなるのだろう。その結果先鋭化してしまうのも無理はないのかなと思っている。もちろんこうした構造が本人の発言をエクスキューズするものではないが、150万人というフォロワーの数はおよそ耐えられる限界を超えていやしないだろうかとも同時に思うのだ。以前の津田さんはもっとバランス感覚がある人だったのだから。無責任なアドバイスをするのであれば一回ツイッターのアカウントを削除してみたらどうだろうかと思う。削除しても復元できるし。フォロワーがいない世界を取り戻し、もう一度自由になったほうが良いと、個人的には思ったりするのだ。

 

津田さんだけではないけれど、数を持っている人が数に飲み込まれて数の論理を過度に内面化する例は枚挙にいとまがない。一市民レベルで見てもLGBTなどの「マイノリティーを認めることがマジョリティーである」という数の論理で考えている人は多い。はたまた逆の意味では大衆が好んで消費する音楽は聴かないと言うような人も数を意識している点では同じだと言える。いずれにせよ現行あらゆるところで支配的なのは「数そのもの」であり、それを最も強く、かつ無意識に体現しているのがインターネットなのだろう。冒頭に戻ればつまり弁当屋での痴話げんかとも言えるやりとりにさえ数の論理を適用し拡散させることをもはや誰も非とは言えない社会になりつつある。マジョリティー(数)の論理によって人は動いていく。今回の弁当屋の事件のように不適格な人間を数の論理によって裁いていくインターネットの趨勢はおそらくこのままいくであろう。

誰もが自らを「1」として考え、この幽霊性を終わらせない限り、この数が終わることもない。