メロンダウト

メロンについて考えるよ

メリトクラシーの結果としての推し、そして弱者男性論

弱者男性論に関する記事を読んだ

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男性は差別されているのではなく排除されていると書かれていて、どうなのかと思ってしまった。確かに男性と女性では抱えている問題が違い、位相が異なる問題を同じ言葉で表すとそれぞれが抱える問題にたいする焦点がぼけてしまうのはその通りだと思うのだけれど、なんというかこういう「細部の違いを理解しよう」という態度が通用しなくなっていることが弱者男性論の根っこにあるのではないだろうか。

 

すこし前にメリトクラシー能力主義)が話題になった時にも思ったけれど、能力が社会的地位や経済力と結び付きすぎると能力のない人間もとい収入が低い人間は安かろう悪かろうという具合に、人に対する視座が単眼的になることにメリトクラシーの問題があるように思う。

孤独で収入が低い弱者男性であろうとも優しく鷹揚な人物もいる。そんなごく当たり前の判断が通用しなくなり、能力がなく収入が低い人間は仕事ができなくて、仕事ができないということはコミュニケーション能力に乏しく、コミュニケーション能力に乏しいということは友達がおらず、友達がいないということは家でアニメばかり見ており、アニメばかり見ているということはオタクであり、オタクであるということは現実にコミットする力に乏しく、現実にコミットしていないということは無敵の人であり、無敵の人は危険であり、危険な人には近寄らないようにしようといった形で排除の視線が向けられる。このように連想ゲームのように人を判断する人はいまや珍しくない。

というのも推し文化がまさにそういうものだからだ。テレビの中の芸能人、ネット上のインフルエンサーの振る舞いを見てこの人は能力がある人だから良い人であるはずだ推そうといった具合に人を判断する。これは弱者男性に向けられる視座と変わることはない。連想ゲームのベクトルがポジティブであるだけで本質的には何も変わらないと言える。

 

事程左様に現代社会では人を判断する時の回路が「直列化」しているのであろう。これの何が問題かと言えば連想ゲーム的な判断が実際にその人のことを言い当ててしまう確率が高くなっていることにある。メリトクラシーにより能力や収入が「実際に」その人の人格を言い当ててしまう確率が高まれば高まるほど人を判断する時の視座はより単純で貧しいものになっていく。何故ならば、メリトクラシーが蔓延し、能力の多寡により人々が適材適所に配置されるようになれば人格的・社会的・経済的能力のズレが消滅し、貧しくても善き人であるというような「バグ」が生じなくなる。そしてそのようなバグなき社会では連想ゲーム的視座の正答率が「実際に」高くなるのである。

 

そして連想ゲームが実際に当たってしまうということが差別感情を正当化する根拠として働くことになる。

弱者男性は○○である、というような一見すると聞くに値しない主語の大きい差別論が蔓延るようになったのは「能力主義による社会配置」により差別的言説の確度が高くなったことに起因している。皮肉にも適切に能力を評価しようとした結果、差別(主語の大きな言説)に根拠を与えてしまったのである。

雑で主語の大きい言説にたいしてそれは雑であり聞くに値しないと捨て置ければ良いが、人間の配置を適切なものにすればするほど雑な言説の確度が高くなる。結果として雑な言説は差別であると同時に社会を言い当てる正論として機能するようになってしまう。差別や主語の大きな議論が愚かなものであることは明らかであるが、目の粗い愚かな議論でも社会のことを言い当てる知的なものに近づいていっている。つまり「細部を理解しよう」といった言説の意味が消滅していっているのが今の社会であり、メリトクラシーの結果なのであろう。

 

このような考えに立って現代社会を見ると、推し文化と弱者男性論と正論は問題の根が同じであることがわかる。

能力できちんと評価しようとして社会的に適切なポジションを与えるとその適切さゆえに社会的地位や経済力と紐づけた人物査定・雑な正論の確度が上がる。そして、確度が上がるにつれ目の粗い単眼的な視座で人を判断する人が増えるようになる。その単眼的な視座がポジティブには推し文化を生み、ネガティブにはチー牛といった弱者男性論を生む。

 

皮肉にも社会を平等に、適切に能力を評価しようとするほど目の粗い視座(正論)で人を判断することが容易になっていった。それはポジティブでもありネガティブでもあるが、それ以上に現象としてそうなっているというだけのことなのではないか、なんてことを思った。

 

(速足で書いてしまったのでもうちょい中身を足してまた書きたいと思います)