トランスエイジなるものが話題になっており、実年齢39歳の男性が自分は28歳だと「自認」しているみたいです。
ツイッターでは大喜利状態になっていて、僕もネタに近いものかと思ってアベプラを見てみたら「年齢を重視する社会が抱える問題」について議論されていて思いの外面白かった。
出演している若新さんいわく日本社会は能力よりも蓄積によって評価する社会(ストック社会)であり、年齢によって人を評価するのはその最たるものだと言う。
自分も昔、メリトクラシーが話題になった時に似たようなことを書いたことを思い出した
日本において最大の評価基準となっているのは「人生にかけてきたコスト」ではないだろうか。
能力が評価されていることは表層であり、それは結果に過ぎず、むしろ「コストそれ自体」を先んじて評価すると見たほうがより正確ではないだろうか。あくまでも能力は「その人がどれだけのコストをかけてきたかの結果」であり、それ以前のコストに重きを置くのが日本的な価値基準に見えている。
日本の企業を例にとって見ても会社の勤続年数や年齢などが出世やポストを得る大きな要素になっていることは疑いようがないし、それは時に能力以上の評価基準となっている。能力がなければ相応のポジションにつくことはかなわないが、それ以上に会社や社会にかけてきたコストがなければ多くの場合、その能力を査定される俎上にあがることすらできない。そうした「ふるい」はいまだに日本では支配的であり、社内の人事だけでなく、新卒で就職活動する時に出身大学やエントリーシートで弾かれることもそれを表している。能力が評価されるためには事前に支払うべきコストが必要であり、その点において日本ではメリトクラシーよりもコストクラシーとでも呼ぶべき「労苦の証明」が先にあるのではないだろうか
年齢・ストック・コストを重んじる根本的な要因っておそらく儒教にあるのではないかと推測しているのだけど、かなり込み入った話になり僕の力量では書けそうにないのでここでは触れないでおくとしても「積み上げてきたもの」が時に能力を越える価値基準であることは実感としてもなんとなくわかる。そしてそれが良いことなのか悪いことなのかは評価が分かれそうなところだとも思う。
アメリカのような能力主義社会ではむき出しの競争に晒されることになり、その結果格差が広がる。しかしながら日本のように蓄積を評価する社会では能力主義が薄まることでそこまで大きな格差は生まれない。けれど能力を評価しなければ競争原理が働かなくなり不均衡が生まれ全体が縮小していく(経済が停滞し世代交代が行われない)ことになる。能力だけを評価しようとすれば新自由主義的な価値観によって自己責任社会になる危険性があるが蓄積を評価しようとすれば社会が保守的になり停滞する。一長一短であり軽々にどちらが良いかは判断できないように思う。
ただ、日本がアメリカと違うことは確かであり、日本社会の形を考えた時、日本における年齢はアメリカのそれよりもリアルなものになっていると、そのように言うことはできるだろう。日本のような蓄積型社会では能力よりも積み上げてきたものを評価するが、蓄積を評価する時のちょうど良い判断材料が年齢であり、年齢と蓄積したものの差異を参照した時にその差異が上方に振れるほど優秀な人間と見なされるけれど逆に下方に振れた時には強いスティグマとなる。能力主義社会では能力だけを評価することで蓄積との間に差異が生まれにくい(実際、アメリカでは履歴書に年齢を書かないことも多いみたいです)が、日本のような蓄積型社会では能力と蓄積の間に差異があると特殊な状態であるとみなされそのような評価を受けることになる。
フリーランスや自営業の人がクレジットカードや住宅ローンの審査に通らなかったりするのは安定した職業もといその人物が蓄積的であるかどうかが社会的評価として重要であることの裏返しでもあるのだろう。
実際、「良い歳になって云々」みたいなことはあらゆるところで「暗に言われていること」であり、仕事に限らず結婚しているかどうかであったりもそうだが、実年齢とライフステージそして能力の差異ができるだけ少ない人物のことを指して大人であると「認める」のが一般的な視座であるように思う。ライフイベントをこなしながら、相応のポジションにつき、その蓄積に見合った「返報(給与・承認)」を受け取るのがよくある日本人の生き方であり、それは終身雇用型のサラリーマン社会がそのような価値観を醸成したものだと考えることができるが、そうした価値観をまだ持っている高齢者が政治の世界などには多いので結果として日本はいまだに蓄積しなければいけない社会となっているのかもしれない。そのような保守的な社会は悪しきように言われることが多いが、他方ではそれがメリトクラシーをせき止めていると言うこともできるのだ。
トランスエイジはそうした日本社会の形を考えるに大変示唆的ではある。
僕もそうであるが少なくない人が蓄積や年齢に囚われており、それを自明なものとして受け入れているけれど、これだけ自由な社会になり求められる能力も複雑化していくと蓄積することに無理が生じることでそれを超越(トランス)する必要性が出てきた、というのがトランスエイジが出てきた機序ではないかと思うのだ。
能力主義社会では年齢は必要ないものであり、履歴書にすら年齢を書かないためトランスする必要性は生じない。はじめから「囚われる檻」がないからである。しかしながら蓄積型社会では年齢に意味が生じるため、トランスする必要性が生まれる。こうした意味でトランスエイジは日本独特の動きではありそうである。
トランスエイジという呼称のせいかトランスジェンダーと同じように揶揄されているけれど、背景を考えると、それを認めるかどうかは別にして議論としては大変面白い。
年齢が持つリアリティーにたいするバックラッシュや取替作業のようなものはこれまでも見られてきた。
【マリン船長78歳】Sexy Boomer Grandma Marine.【ホロライブ/宝鐘マリン】 - YouTube
年齢に関してサバを読む人はかなりの数いる。井上喜久子さんが永遠の17歳と言っていたり、最近だとVtuberの年齢が実年齢とは違うものだったりするけれど、ただ、みんなそれが嘘とわかって付き合っていて本気にする人は誰もいなかったように思う。本人だってネタとして年齢を偽っているのが大半であった。年齢の問題はネタやジョークの内に留まっており、社会的な問題として数えられていなかった。年齢が持つリアリティーを冗談として偽ることでリアルの外へ放り投げることが芸として成立していたのだろう。
しかしながら蓄積型社会に歪みが生じ年齢を偽る必要性に迫られるとネタではなくベタなレベルで年齢を変えようとする人が出てくることになる。そこにリベラル的な価値観、多様性などをミックスし年齢を自認することでその歪みを突破しようと試みるようになるのであろう。
実際問題、日本ではまだ上下関係的コミュニケーションが強く、初対面でも年齢によって規定されたアノミー(共通前提)に依存しているとも言うことができ、そのような関係をフラットにすることはそれが良いことなのか悪いことなのかは別にして日本社会を変えうる可能性を持った議題ではあるように思う。