メロンダウト

メロンについて考えるよ

言語ゲームのパラドックス

最近、言語化という言葉をよく耳にするようになった。解像度が高いなども同様に。

ソーシャルメディア全盛の時代に言葉の威力が増しているため、言語化能力に注目が集まるようになったのかもしれない。

けれど言語化がうまいをポジティブな意味だけで使うのはどうなのかと思う時がある。一口に言語化と言っても詐欺や詭弁も一種の言語能力であって、その場合、ネガティブな意味で解釈しなければおかしなことになるが、どうも最近、言語を無邪気に肯定するというか言葉にたいする警戒心が薄れている感じがしている。

 

人間、言葉ではなんとでも言える。言葉ではなく行動を見よ、と昔から言われている。しかし言葉だけで成立するSNSが世の中を動かし始めるようになると「言葉ではなく行動を見よ」はその実質を失うことになる。

SNS越しでは自ら発信しなければ行動なんか誰も見ていない。どの行動を表に出すかは恣意的に選択することができる。そのため、表面的な行動しか見えず、行動によってその人を判断することは実質的に不可能である。その代わり、言葉によって人を判断する比重が増えた。そのせいかなにか変なことを言えばたちまち炎上したりする。何を言うかなどその人の人物評価の一側面に過ぎないにも関わらず、である。言葉と人格が直列で結ばれるようになり、変な言葉を使えばすなわち変人と判定される。逆に、何を言うかを適切に選べる人、つまり言語化能力がある人にとってSNSは最高のツールになっている。

そうした環境により言語化能力が重要なものとなったため、しきりに「言語化がうまい」「解像度が高い」といった言葉が使われるようになったのではないかと考えられる。

 

SNSが戦略的にそのようになるのは自明であり、それはそれで良いのだが、ひとつ注意しておきたいのはSNSに書かれていることが世の中や人物を反映しているなど微塵も思わないほうが良いということだ。人物評価にせよ社会への評価にせよ言葉だけでやりとりしている以上、実態として把握するのは困難だと、そのように思ったほうが、なんというか「健康に良い」と思っている。

日々飛び込んでくる人々の耳目を集めるために洗練された言葉の数々に触れていると、それらの言葉ひとつひとつの影響は軽微かもしれないが総体として捉えた時、どうしたってその言葉の数々にアテられてしまうことがある。

最近の松本人志の件もそうであるが、冷静で被害者側にたった言葉の数々はそれぞれを取り出してみればいかにもな正論であると同時にお気持ちに過ぎない(実際、刑事罰になるような行為ではないため)わけだけれど、総体として見るとそれが世論であるように錯覚し、どうしたって頭の片隅にこびりつくことになる。社会は女性を侍らせる飲み会を許さない、とSNSは喧伝するわけだが、良かれ悪しかれ似たようなことをやっている人はたくさんいて、SNS世論と社会の実態、つまり言葉と行動には大きなズレがある。

そして行動のほうが常に混沌としていて評価しにくいことばかりである。女性を侍らせる飲み会が悪だとしてもそこで出会い、結果的にうまくいったというパターンだってある。道徳的な観点から言えば悪いとされることでもそれが功を奏してしまうことがある。逆に良き人間であろうと考え行動していると神経質になりすぎてうまくいかないというパターンもある。もちろん良き人間が良き人生を送るというケースもあるし、皆そのように願う(公正世界仮説)けれど、そういう風にはできていないのが現実なのだと思う。つまり言葉でなんと言おうが現実は時にどこにどう転がるかわからないケースがほとんどであり、そのわけのわからなさが人を判断する時には重要なものとなってくるのであろう。どういう人物であるかは、よくわからず、都度訂正されるけれど、同時にそのわけのわからなさゆえにその人を白黒つけないでいることができる。それが行動で人を判断する(しない)ということの意味なのだと思う。

 

「言葉ではなく行動を見よ」という教訓は「言葉で人を判断すれば過度に道徳的・論理的なものになり簡単にその人に失望することができるため関係性が続かないので、行動というカオスで判別不可能な指標のほうがその人と付き合っていくには向いている」という意味も含んでいるのであろう。

もちろん単純に行動のほうが無意識や中間意識のようなものまで察知できるという意味もある。姿勢や表情といったノンバーバルなもののほうが素が出やすいのはその通りなのだと思う。ただ、行動でその人を判断できるかと言えば、そうとも限らず、むしろ人を判断しないためにこそ行動で人を見る必要がある。特に今のように言葉が氾濫している時代ではなおさら、である。

何を言ったか、で人を判断し、アーカイブを遡り、魚拓を取り、リポストし、議論するというような言語ゲームに勤しむことそのものが、言葉を選ばずに言えばもはやばかばかしいと感じるようになってきている。言語化能力に注目が集まることと、言語に適応することと、言語で人を判断しキャンセルすることは不可分の関係にあり、みなが言語ゲームに適応しその能力を高めようと努めると社会は過ー言語化し、人物評価や社会評価はますますピーキーなものになっていく。

人を判断し過ぎる時代に判断しないためには何をどうしたら良いのかを考えたほうが良い気がしている。何を言っているか、のみならず、何をしているかですら「程度として」どうでも良いのである。