山里氏の結婚に関して岡村隆史さんの発言に関して思ったことを書いていこう。岡村隆史さんが山里さんの結婚に関して「勝ち組」と言ったことにたいしてなにやら言われているみたい。けっこう典型的なネット仕草もとい情報仕草に見えた。芸能人の結婚とそれに言及する芸能人というとかなり俗っぽい話であるがけっこう大事なことが見える件だと思う。
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/06/07/kiji/20190607s00041000111000c.html
情報化社会と言われて久しい。特にSNSが一般にも普及し始めてもうすっかり社会は情報化した。そうこうしているうちにこの情報化社会で変わったものも見えてきた。
情報は英語でinformationであるがこの単語を切り分けるとinformで知らせるという意味を持ち、in-formationで型の中に入れるという意味も持つ。誰かに何かを知らせることはその関係の中に巻き込み入れ込むことである。情報化社会は情報化することによってすべての人がすべての人に巻き込み巻き込まれるようになった社会だと言える。twitterなどのSNSを見ていても実際に起きていることと相違ない。
そのおかげでブラック企業が晒されたりと良いこともある。というより客観的な意見が優勢となりやすい情報は良い影響を持つことのほうが多いと思っている。想像もしていないような仕事をしている人が情報発信して知らない人を巻き込んだり、SNSを利用して地方活性化したりと人々をつなぐ役割として機能している。しかしそればかりではない。政治的にはポピュリズム、ポストトゥルース、フェイクニュースなども問題視されている。あるいは情報化により全員の富や幸福が相対化され嫉妬に駆られることがあるのも問題だ。
いろいろ問題はあるけれど今回の件(山里氏の結婚報道)からはもっと大きなくくりで情報それ自体が持つ弊害が見て取れる。
岡村さんが山里さんの結婚に関して「勝ち組」という言葉を使って祝福したことは二人の関係の中では祝辞として成立するものだと思う。しかしその言葉が情報化した時に僕たちはその言葉を客観的に判断しようとする。実際、はてブのコメント欄でもそういう反応が見て取れた。
「美人と結婚できれば勝ち組という規範意識はおかしい」
「結婚しているのが勝ち組なのか」
こうした批判は客観的に見れば正しい。
既婚者と独身者に優劣はなく平等であるという理念を僕たちは持つべきだし信じるべきである。しかしそれが他者が他者に向けた言葉を裁く理念であるかまた別の問題となる。
誰かが誰かに向けて発した言葉を情報化して他人が判断するというのはかなり危険な行為だ。その関係性の中でしか意味を持たない言葉があり、それは客観的には正しくないがその関係の中においては「通じる」言葉であるからだ。経験的にみんな知っていると思う。
頭が薄い人にハゲというとだいたい良い結果にならないが冗談が通じる特定の個人に言えばジョークになりうる。いや馬鹿やハゲなどの罵倒語はあまりいい例ではないかもしれない。実際には言わないほうがいいと思う。
ほかの例をあげると君の膵臓を食べたいという映画がいい例だ。「君の膵臓を食べたい」が客観的にはカニバリズムであっても映画内では愛を象徴する言葉として機能している。閉じた関係の中では意味が違ってくる。
こういう客観的に判断していいことと個別的に判断しなければいけないことの違いが大きく言えば文系と理系に大別される。理系は再現性があることを探求しようとする学問である。りんごは木から落ちれば絶対に地面に落下する。100回やれば100回そうなる理(ことわり)を解明しようとする。あるいは疫学のように100回中統計的に20回はそうなるだろうという確率を算出して分析する。
いっぽう文系、特に人文科学はそうではない。人にハゲと言った時に何人中何人が怒るかなんてことは計算しないのが正しい態度だ。なぜ人にハゲと言うことは正しくないのかを「無根拠に言葉にし与える」のが人文科学の本質的な意義である。
お金に価値があるのは人々がほとんど無根拠にそれに価値があると信じているからだ。私有財産もその個人がその財産を持っていることに正当な理由はない。仮にあるとしてもそれは資本の論理であって金や富そのものを説明できる理ではない。国民国家もまた共同幻想である。出生や国籍以外に中国人や韓国人と生物的な違いはそれほどないだろう。しかしその無根拠な概念を与えないことには社会が回らないから無根拠な「信仰」を与えることには意義がある。
いっぽうで社会科学である心理学や行動経済学は統計的に人間を分析しようとする。しかしその論理を現実の人間関係に持ち込んだ時点で暴力である。既婚者のほうが独身者よりも幸福であるというのは統計的にはっきりしているがそれを目の前の独身者に言うことがどんなに失礼か僕達は知っている。独身者でも幸せな人はいるし既婚者でも不幸な人はめっちゃくちゃいる。だから個別認識が必要になる。
ハゲと言う人とハゲと言われる人の関係性を見通そう、人間関係は相対的であり絶対化できないものでありほとんどが無根拠であるという態度が人文科学的には正しい態度となる。そしてそれはみんな経験的に知っていることだと思う。あの人はあんなトラウマを持ってる、あの人はちょっとしたことで怒る、あの人は悲しい離婚経験がある、あの人は鬱病で休職していたことがある、あの人は○○であるから発言には注意しようとみんな現実の人間関係では判断している。
しかしネットになると個別認識をやめ全体の理念で人を判断しているように見える。見えているだけでそうではないことをしている人のほうが多いかもしれないが、「そう見えている」ことのほうが情報的には優位に機能する。
そう見えている限りそう見ることが正しい判断だと僕達の意識は塗り替えられていく。ちょうど僕たちがこれまで無根拠に金に価値を見出し、無根拠な道徳を教えられ、誰かがつくった法律に従わなくてはならないように、これからは「そう見えている情報」が世界を塗り替えていく。
metooやフェミニズム、ヴィーガンなどの客観的に正しい情報的な態度が支配的になるのはそう遠くない。metooにたいして「男はやりたい動物なんだよ」って反論は馬鹿げている。食欲以外に動物を必要以上に食べる理由もない。旧来のジェンダーロールにも正当性はない。
そこに無根拠な言葉でエクスキューズを与えることがこれまで文系学問がしてきたことだ。僕たちが大事に思っている行動だったり価値観だったりはほとんどが幻想であり偽物である。
いってしまえばただのサブカルである文学がなぜ学問として扱われているかはそこに書かれている言葉がすべて嘘だからだ。フィクションという無根拠なものだからこそ現実に投射する価値がある。逆に社会科学のように現実を分析する学問は解答を得ることができる。しかし解答は価値とはまた違う。
フィクションが現実に作用する例としては恋愛がわかりやすい。ドラマのような恋愛がしたいなんて言葉があるが、恋愛感情もまたどこかで聞いた物語を現実に投射することで酔っ払っているにすぎない。けどそうしてはじめた偽物の恋愛が時間が経つにつれ現実のものになっていく。偽物だからこそ本物に向かおうと思うものなのだろう。これがあなたの本当の愛する相手ですと誰かが合理的に解答をくれたとしても僕たちはそれに納得するようにできていない。僕たち偽物を欲する。
本物は本物であるゆえに偽物であり、本物に向かおうとする意志があるぶん偽物のほうが本物よりも本物である。正しくないもののほうが正しさに向かおうとするぶん正しいものよりも正しいのである。言葉遊びのように聞こえるかもしれないがそうして言葉にして解答を有耶無耶にしてどちらも肯定するのは大事な作業だと僕は思う。
しかしそういう無根拠で偽物的で正しくないどっちつかずな価値は消えていずれなくなる。宗教(信仰)は科学に侵食されてきた。情報もまた文学を侵食する。
あまり関係のないことも長々と書いてしまったけど、今回の山里さんと岡村さんのやりとりに反応するネット民の情報的に正しい態度はかなり危険な反応に見えた。客観的な判断を実際の人間関係をはかるうえで適応しないほうがいい。
客観的、情報的には既婚者と独身者が平等なのは正しいし、彼が彼に「勝ち組」と言ったことも彼らの関係の中では正しいのだから。