メロンダウト

メロンについて考えるよ

機能は機能でしかない~恋愛と客観の狭間を考える~

たにしさんが久しぶりにブログ書かれていた。相変わらず端的な文章を書かれる。もっと書いてほしい。あとブログ婚活がどうなったのか密かに気になっています。
記事では情としての恋愛、機能としての恋愛について書かれていた。僕も昔、似たような記事を書いたことを思い出した。
 
「情から疎外され物象化されたうえに機能としての視座を向けられる婚活はつらい」とたにしさんは書かれていて、現状認識としてはその通りだと思うけれど、同時に思うのが機能と情はそれほど明確に分けられるものなのかということだ。今の婚活市場で求められるのはステータスやアフォーダンスであることは疑いようがないけれど、情としての恋愛だって「もともとは機能だった」のではないだろうか。(たにしさんには釈迦に説法な指摘だとは思うけれど)
 
情としての恋愛で想起される若い頃の恋愛も性欲に駆動されたり狭い世界の勘違いによって始まることがかなり一般的なものだったと思う。
「性格が良い」「かっこいい」「かわいい」という判断も今思えば小さい世界で醸成された単なる幻想だった。大人になってから客観的に人を判断する審美眼を持つようになり、その審美眼が皮肉にも人間を機能として捉えるようになったのが婚活市場のステータス主義をつくっているのだと思われるが、とはいえ学生時代の恋愛も「機能以前の本能」に駆動されているものに過ぎなかった。
 
本能によって駆動されるか機能によって駆動されるかの違いはあれど、そもそも情のある恋愛みたいな考えが空想なのではないだろうか。僕もそんなに恋愛経験があるほうではないけど、現実にはロマンティックな恋愛はほとんど存在せず、なにがしかのきっかけで時を共にし、結果として番いとなり、過ごした時間の中に情が生まれるのが一般的な恋愛であるように思う。現代は自由恋愛の時代と言われたりするが同じ時を過ごして生まれた情に縛られることで自由ではなくなるからこそ恋愛だと、経験的にはそう感じるのだ。
 
ごく一般的に、人はただ一緒にいるだけで情が湧いてきてしまうものだと思う。恋愛に限らずとも、人間関係一般を振り返ってみても「あなたと私は今日から情を育みます」みたいなそんな関係性はどこにもありやしない。僕たちはただ偶々時を同じくし、その結果どうしようもなく離れ難くなった関係を家族・恋人・親友と、言葉を変えてそう呼んだりするだけで、どんな関係にも機能はついて回る。
子供を育てる機能を持つ家族、生殖機能を有する恋人、自らの分身的機能を持つ親友と、どんな関係にも機能は存在している。しかしながら当然、僕たちは家族を機能としては捉えていない。家族ほどに機能的な集団はないにも関わらずである。何故かと言えば、家族には機能を意識できなくなるくらいの「時間の共有」「思い出」があるからなのであろう。その思い出を育む長さに比例して、愛はもちろん憎しみも含めた情を持ち、分かち難くなる。その分かち難さを時に情として述懐し、羨望し、嫉妬したりする。おそらくは人間、そういう風にできているものなのだろう。
 
マルクスもとい共産主義者は家族の解体も主張していたので反機能主義としての一貫性があるが、別に僕達はマルクスではない。かつてのように子供を働き手として産んだり、口減らしをしたり、政治的な理由で結婚させられたりといった機能集団としての家族はもはや存在しない。過去、機能としての家族が非情だったのは事実であり、そこではマルクスの主張が正しいとされるのも自然だった。しかし今はそうではない。現代になり「家族だって機能である。で、それがどうしたの?」と言えるぐらいには情と機能が両立することを僕達は知っている。おそらくそれは産まれた時からそうなのだろう。皆たまたま親のもとに生まれただけであり、家族の関係なんて言ってしまえば「そんなもん」なのだ。しかし同時にそんなもんがどうしようもなく大切だったりする。
恋愛でもそれは同じことではないだろうか。ロマンティック・ラブ・イデオロギーと機能的恋愛のどちらを選ぶかのような話は実存と実利の問題として対立するように考えられているが、それらは程度として共存しうるように思う。
つまるところ人は機能であり、モノであるが、そのうえでなお人は人なのである。(誰とは言わないけどモノみたいに蹴っ飛ばされたり犬扱いされて興奮するタイプの人間もいるので、モノだって人間だと思います。わんわん。)
おそらく、機能それ自体を問題にし、そこから離れようとすることは間違っている。
 
 
とはいえ現状の婚活市場が歪んでいるのはたにしさんの指摘する通りだと思われる。ただ、そこで問題とすべきは機能ではなく機能の中身のほうに見える。
その中身が何かと言えば「資本」と「情報」なのだろう。
現代特有の条件として数えられるのが女性の資本主義化である。フェミニズムの影響により女性も稼得者として労働に勤しむようになった。それは男女平等の実現であり、好ましい事であるが、他方で結婚や恋愛を資本獲得の手段として用いる女性が出てくるようになったのも否定できない。婚活ではそれが顕著で、社会に出て資本化された女性は稼得能力のある男性を選びがちになる。言い換えれば一部の女性は資本主義の枠内で男性を見ているとも言える。事実として仕事ができる男性はマルチタスクに優れており家事もこなすことができる人が多いうえ、コミュニケーションにも齟齬がないことが多い。したがってその男性観は間違ってはいないのだろう。
他方で男性は良かれ悪しかれ稼ぐことの重要さと冷酷さを内面化しており、資本とは別の外部(聖域)として女性を捉えがちである。性欲や情だったりと形を変えはするものの、資本とは別の領域で考えているのは間違いない。
女性が資本主義を内面化すると、資本主義の外部を求める男性とはすれちがうことになり、結果として女性は「資本を利用する男性」とマッチングすることになる。それがマッチングアプリで起きていることだと思われる。男女平等が実現した結果生まれた男女の資本主義の捉え方の違いが恋愛のアンビバレンスを生み、そのすれ違いが顕著に表れているのが婚活であるように見える。男女がそれぞれ別の目的で恋愛を捉えることですれ違い、同じ時間を共有できるだけの関係は少なくなっていき、同時に情も失われていく。
 
また、現代特有の機能として「情報」も忘れてはならないはずだ。
情報化社会と言われて久しいため、もうかつてのような社会像を想像することすら難しいかもしれないが、情報化される以前のはみなそれぞれの主観の中で恋愛を捉えていたはずだ。SNSで誰かの恋愛観を覗いたりといった「自らの恋愛を客観視する方法」に乏しかった時代では恋に盲目なままでいられて、それが時間の共有を促進し結果として情が生まれていたのだろう。しかしながらSNSが普及し自らの恋愛を客観視するようになると、その客観性に囚われるという事態が起きる。恋愛なんてだいたい全部狂ってるので客観に眼差された瞬間に醒めてしまう。日々SNSで目にする「痛快な恋愛の逸話」がある種の正しさを持って自身を説得するようになってしまう。主体が希釈され、客観的に見てより良い恋愛というロールモデルに縛られていくことになる。狂気が正気になることで、狂う(情を育む)までの時間が制限されていく。
情報は英語でinformationと訳されるが、情報という客観に眼差された瞬間に自らの価値観がその情報にinformed(定型化)されていく。それが情報の特性なのだ。とりわけ恋愛という究極の主観は情報という客観によって相対化の餌食にされやすい。
情報という客観性が世の中を覆っていく中、他方で「いかに狂うか」というのがある種の至上命題になりつつある。恋愛に限らず、「いかに狂うか」は今の社会でかなり重要な問いだ。
「主観と客観」「機能と情」「理性と狂気」の舵をどうやって取っていくかを考え実践する。そのためにはまず機能の内実を捉える必要があるように思う。機能それ自体に絶望するのではなく、機能が機能でしかないと知ることで客観に侵食されないまま主観を温存することができる。「金は金である」「人の意見は人の意見である」という具合に峻別し、取捨選択する。そして主体を保つ。
その「主体的我慢」の時間の末に「情」が宿るようになるのではないだろうか、なんてことを思ったのだった。