メロンダウト

メロンについて考えるよ

『バカと無知』を読んで思ったこと

ベストセラーになっている橘玲さんの著書『バカと無知』読みました。
新書ということもあってかなり読みやすかった。読んだ勢いで『言ってはいけない』『もっと言ってはいけない』も読んでいるところです。
 
『バカと無知』は内容としては進化心理学の知見を用いて現代社会の「きれいごと」を批判している本で、身も蓋もない人間の業を前提にして議論するべきだ、といった内容だった。
・人間は社会的動物で他人と自分を比べた時に上方比較には不快感を感じ、下方比較には快楽を感じる
・反社会的パーソナリティーには遺伝的要因がすくなからず関係しており、生育環境が違う双子を追跡調査しても両方とも犯罪に手を染めるケースが確認される
・無知な人間は「何を知らないかを知らない」ので因果関係が皆無なものも信じてしまう
 
などなど
各章ごとにエッセイのような形で書かれており内容の突飛さや「残酷さ」とは裏腹にかなり読みやすかったです。
 
けれど、あくまで個人的に、最近はこの手の「身も蓋もない話」に関してはどこか危うさを覚えてしまいます。
 
進化心理学がどうだという話でもないのですが、この手のエビデンスベースの社会論がよく読まれているところに現代性があるのではないかと思うのですよね。
すこし前に文系学部の廃止論が出てきた時にも思ったけれど、文系が理科学的になっていき抽象的で理念的な話は明後日の方向に追いやられ、進化心理学のような「身も蓋もない話」がよく読まれるようになっているのが近年のトレンドであるように見受けられる。
同じような機運はメディア上でも見られる。ひろゆき氏が代表的だ。ひろゆき氏は相手に質問を投げかけそれを事実によって反論し相手の言説をただの感想として無意味化するというスタイルで爆発的に人気になっていった。彼の言葉がよく聞かれることもまた「身も蓋もない話」を人々が求めている証左ではあるのだろう。
 
もちろんエビデンスベースの話が大切であることは言うまでもないし、他方では陰謀論のような「逆側」が無視できない規模になっていることもあるので一概に今の社会はエビデンスに偏りすぎているとも言えない。
ただ、エビデンスで考える表側と陰謀論のような裏側へと二極化していく中で忘れられていったのが表側の「毒性」ではいか、なんてことを思うようになった。
 
たとえば『バカと無知』で自尊心について触れられている箇所がある。
人間は社会的動物として進化してきたので他者からの承認は生存のために不可欠なものであり、古代の狩猟社会では承認を失うと共同体から追い出されるため文字通りの死を意味した。したがって人間にとって自尊心や承認欲求は遺伝子にプログラムされた本能なのだという。それは現代社会になっても変わることはなく、承認を巡る闘争はより複雑化してきている云々
といった合理的説明がなされており、大変な説得力があるわけであるが、現代において自尊心とはそこまで明確に定義できるものなのかという疑問も残る。なぜなら古代の人々が暮らしていた世界と違い、現代では言葉や表現が桁違いに発達しているからだ。
自尊心と一口に言っても、人間が言葉を操る動物である以上、そこには多様な修飾の仕方がある。かわいい、かっこいい、仕事ができる、歌がうまい・・・・・など無限の修飾がある。そしてその修飾表現に別の形容詞や副詞をつけることで意味が与えられることもある。ネガティブな風に言えば「無駄にかわいい」「仕事ができる、だけ」など解釈が与えられると言葉の意味が反転して一概には言えなくなる。ようするに言葉を定義するのはその言葉単体ではなくどう形容されるかに依存しているということだ。言葉によって与えられる承認や自尊心も同様で、「遺伝子ガチャに外れた」みたいな身も蓋もない現実にもポジティブな解釈が与えられればそこに「余地」が生まれ呼吸することができるようになる。大きく言えばそれが文系の役割だったのではないかと思う。別の言い方をすれば表現は多様であるため自尊心や承認は定義不可能だという「逆側の身も蓋もなさ」が身も蓋もない現実にたいするカウンターとして機能し、その機能によって話が終わらないでいられる。(こういうのは「悪しき相対主義」とも言われるけれど、悪しきかどうかはさておき文学的表現が必要な人はやはりいるであろう)
論理や合理によって埋められていく遺伝だったりの身も蓋もない話にたいして、それでは身も蓋もなさすぎるので、それがどれだけ非論理的であろうとも解釈を調達してくることでなんとか前を向いていくことができるようになる。それが半ば「無理筋の擁護」であったり、はたまた「神学的」だとしても無意味に思える解釈に希望を見出すことにこそ意味があったのではないか、なんてことを思ってしまうのだ。
 
もちろん『バカと無知』で書かれているのは人間がどのようなバイアスやそれに基づく蓋然性を持っているかというその前提を共有しようという提案に過ぎず、文系的解釈について批判しているわけではない。ただデータを用いて人間のどうしようもない業を論じているだけだ。けれど読んでいるうちに、そのような「身も蓋もない話にたいする解釈を調達するのが難しくなっていることこそ」が現代社会の問題なのではないだろうか、という感想を持つようになった。
 
思い出すのが韓国ドラマ『梨泰院クラス』にてニーチェの言葉が引用されていたシーンだ。ドラマの内容をよく表していて印象的だったためよく覚えているのだがその言葉が「何度でもいい、このむごい人生よ、もう一度」というものだった。
ドラマの主人公には壮絶な過去があり復讐心を糧として生きていくのだが、どんなに悲惨であろうともそれを肯定しようとする克己心こそが重要だと表現されていた。もちろんそのような都合の良い話が成立するのはフィクションの中だけだという批判もありうるだろう。実際、悲惨な過去を糧として生きていける人は稀で、戦争から帰ってきた兵士の多くがPTSDになるように、現実には悲劇に遭えば精神を患ったりすることが多く、過去を克服したとしてもそれは生存者バイアスだというふうにまとめられるのが「身も蓋もない現実」というものだ。けれど、というかそれでもなお解釈が残ることにこそ意味があり、身も蓋もない話が仮に正しくともそれで「終わらせないこと」のほうがはるかに重要だったはずなのだ。むごい人生でも悲劇的な人生でも肯定する余地、言葉は残る。そうして無根拠な言葉に寄りかかり、やり過ごしていくうちになにがしかのよすがを見つけるのが衆生というものだったのではないだろうか。
 
けれどそのようなやりすごしにたいして「説明」や「解答」が与えられると問いが存在する余地がなくなっていく。あなたの不遇は「親」「国」「遺伝」「社会」「性別」「時代」にある、と言えば問いはそこへ放り込まれるだけとなる。言い換えれば問いが問いとして残ることがなくなり、客観的指標へ帰属処理されることになる。そしてそこで「話」が終わる。文章にピリオドを打つように、問いや悩みにもピリオドが打たれる。それが身も蓋もない話の弊害であるように思う。
 
いずれにせよ説明というものは厄介で、今となれば「悲劇に解釈を与え肯定的にとらえ返す」ことにも合理的説明が与えられており、たとえば誘拐された被害者が誘拐犯を愛してしまうことはストックホルム症候群と呼ばれたりと、「個人のバイアスにもとづいた歪み」は修正されるよう社会からアナウンスされる。近頃話題のジャニー喜多川氏による性加害に関しても、被害にあったタレントは被害を被害と思わせないようにグルーミングされていたのでは、とアナウンスされている。解釈自体が追跡されその人が思っていた心理に名前が与えられそれはあなたの感想だという風に暗に言われるのが合理的説明というもので、そこでは被害にあった人自身も自分の考えが自分のものなのかよくわからなくなることになる。
 
無論、合理的説明はその人が自身の境遇を理解する大きな助けになるのは間違いないけれど、他方では自分で感じたこと、つまりは「感想」を持ちうる余地を削ぐことになる。今はインターネットでなんでも調べられることも相まって合理的説明に自身の境遇をアウトソースすることで事態を正しく処理することが可能になっている。そのような装置・環境に大いに助けられていることは否定できない。しかし他方では克己心によって自身の境遇を克服するという主体的評価、つまりは「根性論」や「感情論」が通用しなくなっているように見える。
「それってあなたの感想ですよね」という身も蓋もない言葉がここまで流行るのはそうした感情論の終わりを意味しており、あらゆるものに「説明」や「事実」が付与され感情や文系的解釈の居場所が追われていった。進化心理学のような合理的な話がよく読まれていることもそうした現代の趨勢と無関係ではないように思われる。
 
ーーー
 
かつてニーチェニヒリズムに覆われていく中でどのように生きていけば良いかを考え「永劫回帰」や「超人」などの概念を提唱した。けれどいまやそのような世界観を語る人はいなくなった。実存的不安は環境的不遇へと変換されることで処理される。主観的感情はエビデンスに基づいた話によって客観的なものへと変換され、そこでは不安を感じないで済む。かつて神という人々を統一する存在がいたけれど、神がいなくなったことで人々はバラバラになり、価値を言明することが難しくなった。それが近代人の不安の源泉だ。あなたの感情はあなたの感情でしかない、みんな違ってみんな良い。そのような相対主義ニヒリズムに堕した。それは今でも変わっていないはずである。ただし、実存的不安が盛んに叫ばれていた70・80年代と現在が違うのは社会が情報化したことで、そこでは有無を言わさぬエビデンスが人々の実存的不安を埋め尽くしていくようになる。それは一見すると良いことのように思える。ただ、同時に「本当にそれで良かったのか」という一抹の疑問も残る。いや、もちろん不安なのは誰だって嫌だろう。ただ、不安も人間にとって大切なものだったのではないだろうかと、そんなことを思うのだ。
 
情報が感情を埋め尽くしていけば解釈の余地も削がれていくことになり、思考は合理化していく。そしてそれは良いことだと皆が思っている。ただ、僕はそれほど単純に断言できないのでは、という疑問を持ってしまう。なぜなら、極端な話、生まれてきたり誰かを生んだりすること自体が「誘拐的」なわけであるが、それをストックホルム症候群と「呼びきらないこと(解釈の余地を残すこと)」でなんとか回っているのが人間というやつだったのではないかと、そんなことを思ってしまうからだ。