メロンダウト

メロンについて考えるよ

なぜ子供だけが残ると思うのだろう

新たな形の性淘汰がそこまできているのではないか、という感じを最近いろんなところで思うことがある。

去年7月に不同意性交罪が施行され、最近、同法案のもとに逮捕されたというニュースがあった。

news.yahoo.co.jp

 

どのようなやりとりで行為に至ったのかはよくわからないので個別のニュースにたいしどうこう言うつもりはないのだけれど、不同意性交罪であったり、芸能人の性加害疑惑に、最近だとアイドル文化などをいろいろ総合して見るともう余計な性行為はするなと社会全体がアナウンスしているような印象を受ける。

 

上掲記事の件にしても今のところ大人の男女二人がホテルに行った時点で、特別な理由(酒に酔って酩酊している、断れない関係である等)がない限り性行為の同意は取れていると見なしている人がほとんどであるように思う。

ただ、このようなニュースや、芸能人のスキャンダルを見ていると「完全な同意がない場合、性行為をするのはリスクが大きすぎる」と判断する人がたくさん出てくるようになる。仮にマッチングアプリで出会った異性とホテルに行き性行為に及んだ後に被害届を提出されれば勤務先にも知られることになるし、場合によっては休職し、社内にいづらくなれば職を追われることにもなるだろう。普通、そこまでのリスクを負ってまで異性と性行為をしようと思う人はいない。さらに、不同意性交罪の成立要件は婚姻関係があるかどうかは考慮されないため、ワンナイトの関係に限った話ではない。仮に付き合っているとしてもある日突然、遡及的にあの日の性行為は嫌だったと申し立てられたらアウトとなる。

もちろん、同意があったかどうかは司法が適切に判断することになるのだろうが、被害届を提出されたり訴訟されること自体が一般市民からして見れば甚大なリスクであり、裁判になった後に勝てるかどうかの前に訴えられるかもしれないというリスクを見積もるのが通常の市民感覚であろう。そしてこの訴えられるかもしれないというリスクは、性交同意書にサインするでもない限りゼロにはならない。いや、同意書にサインしたとしても後で書かされたと申し立てられればやはりアウトである。そうしたリスクを鑑みればワンナイトのみならず恋愛関係にあっても性行為をすることにリスクが伴うことを避けられない。それが通常の判断となる。

つまりもう性行為は風俗とよほどの信頼関係があるパートナー以外とすべきではないと考える人が大勢出てくることになる。実際、もう女性を誘って性行為をするというようなことは、このような社会の動向を知らない「やばい人」か、訴えられてもかまわない知り合いに弁護士がいるような人か、もしくは女性のほうから誘われるアルファ雄しか残っていないのではないだろうか。通常の勤め人かつ理性的な人は女性を誘うことのリスクを勘案し、女性から誘われるのを待つだけになるが、現実にはそんなことはありえず、男性から迫らない限り、多くの場合恋愛には発展しない。すなわち、事実上、多くの男性は恋愛から退却することになるし、実際にそうなっている。

もちろん女性の性被害が深刻な問題であることは理解できるし、性犯罪者は厳罰に処すべきだと思っているが、問題なのは性行為と性犯罪に確たるボーダーラインがないことにあり、性犯罪を厳罰化すれば必然的に性犯罪になるかもしれない性行為も減ることになるということだ。そのような「波及効果」を考えずに、性犯罪を厳罰化し、カジュアルに訴えられるようにすれば社会が良くなるというのは視野が一面的に過ぎるのではないだろうか。

 

不同意性交のみならず有名人が性加害疑惑で仕事を降ろされるという報道にも同様の波及効果がある。最近、性加害疑惑が報じられサッカーのアジアカップから離脱した伊藤純也選手もそうであり、JFA日本サッカー協会)は最悪の判断をしたと個人的には思っている。サッカーや芸能など人気商売をしている人が人気がなくなり降ろされるだけだという人もいるが、ピーキーな判断を社会が下しているとアナウンスする弊害は大きい。性加害は疑惑の段階から許さないとすれば訴えられた時点で仕事を追われることになり、やはり余計な性行為はしないようにしようとみなが考えるようになる。そしてその影響は社会全体にも波及し、上に書いたように市場にはやばい人とアルファしか残らない状態となる。そのようなやばい人とアルファしか残らない状態であれば結果として女性が性被害を受ける確率が上がり、それをメディアが報じ、SNSが増幅し、リベラル活動家がフラワーデモを行い、それにより厳罰化が進み、ますますやばい人しか恋愛しなくなり、以下ループ、である。

 

 

関連するかはわからないが

松本人志さんの罪についての考察と提案反社会学講座ブログ

こちらの記事に

この世に替えの効かない人なんてひとりもいないんです。もしもそんな人が歴史上ひとりでもいたのなら、その人の死とともに人類の歴史は終わってたはずです。
 これは冷酷な事実ではなく、救いです。替えが効くからこそ、ある人の不在をべつの人が補える。人類は助けあって生きていけるんです。

 

と書かれていて、実際、仕事の代わりなどいくらでもいるし、誰かが仕事を追われたとしてもたいした問題ではない。それはそうなのだが、その人個人にとってみれば仕事を降ろされるのはやはり重大な問題である。替えが効く、ということはその人個人の悲劇にとってみればなんら関係がない。自分は他人ではないし、他人は自分ではない。全体として見て代えがきいたというからなんなんだ、と読んでいて思ったけれど、このような個人の実存を考慮しない純社会的言説を最近はよく見るようになったように思う。

第一に社会があり、次に人間がいるような言説だ。社会の安寧を保つために人間の業であったり実存はとりあえず横に置いておいて犯罪(仮)を糾弾し厳罰化する。社会を代表するにふさわしい人物であるように、スキャンダルには厳正に対処する。公共の安全のために、公園では、電車では、街中では、路上では、云々。そんな話ばかりだ。

そうした言論環境、つまり社会を一義的なものにした結果、「こんな社会で子供を持ちたくない」という反出生主義のような言説も出てくるようになった。反出生主義が是か非かという話はさておき、子供を持つこと=人間の自由を信じることよりも社会のほうを上位に置いていることにこそ反出生主義の現代らしさがある。子供が生来持つ自由が社会に侵食されると僕達が経験的に知っていて、かつその圧力を子供も回避できないだろうという予測のもとに反出生主義は立脚している。

反出生主義は極端な例ではあるが、こうした「社会をなぞる」という思考様式はなにも反出生主義に限った話ではない。社会全体のために個人の自由を捧げるというようなことは大なり小なりみながしている。その過多が問題であり社会と個人はどちらにも行き過ぎないようにバランスを保つことが肝要だと個人的には思っているのだが、今起きているように滅私奉公をありとあらゆるところで反復していれば、社会がなにか(性犯罪は許さない等)をアナウンスした時、それを自身の自由よりも上位に置く癖がつくようになる。それは一見すると理性的な態度に見えるが、究極的には上記記事のように「自分が自分である必要はない」というような純社会的ニヒリズムに至るし、時に反社会的となりうる性行為を伴う恋愛からは退却する人が出て少子化にもつながり、しまいには反出生主義のような言説が出てくるようにもなる。

そうした「波及」をすべて無視し、何も起こらない綺麗で生きやすい社会をつくりたいというのであればそれはそれで良いのだが、そのような社会をつくっておきながら他方で少子化を憂いてみせたりする。そこに欺瞞がある。何故、社会を一義的に語ったり、性行為に至るハードルや行為の社会的リスクを上げておきながら子供(自由)だけが残ると思うのか、僕には不思議でならないのである。