メロンダウト

メロンについて考えるよ

「そんなこと言ってもしょうがない」への里帰り

最近、ひょんなことから小学生のサッカークラブでサブコーチをやるようになりまして酷暑の中を走り回っているのですが、子供と遊ぶのは良いもので、肉体的にも精神的にもデトックスになっているのだなと感じています。正直もう若くないのでしんどいのですが小学生に追いつけるように体力を取り戻していきたい日々です。

同時期にはてなブックマークも非表示になり、意図せずデジタルデトックスにもなっているのですが*1いろいろデトックスした結果、本格的に「何が問題なのか」がよくわからなくなってきました。感覚的にはサウナで整いすぎて頭が回らなくなるのに似ているのですが・・・整うことでタスクの処理能力は上がっても思考を回転させることからは離れていってしまう感覚がある。物事や社会を考え、議論に参加しようとするにはストレスや負荷が必要なのでしょう。負荷をかけ、アンテナの感度を上げ、細部にまで思考を張り巡らせることで問題を問題として捉えることは、恐らくデトックスと相性が悪い。仕事として書いている人であればまた話が違うのでしょうけど、ブログの場合、仕事という動機付けもなければ締め切りもないしお金にもならないので「無になれば無」なのである。

 

 

それはともかく来週には参議院選挙もあり、様々な問題が俎上に上がり議論されている。物価高を筆頭にAV新法、表現の自由などもまた盛り上がっている。いろいろ見ていると結局のところ、いつもの話になってしまうのですが、関係性の話に行き着くのではないかと思ったりする。

表現の自由の話に関しても、なぜ表現を規制しようとする人が出てくるかと言えば「誰かがその表現によって救われている」という他者へのリアリティーが失われてしまったから自由を制限しようとする人々が出てくるのでしょう。同人誌を楽しんでいるオタクもいれば、BL本を楽しむ女性もいて、クラブでEDMを聴きながら踊ってる人々もいる。どれも表現の自由の範疇の話であり、何にたいして心を動かされるかは人それぞれ違う。しかし今はインターネットで他者の発言は見えても生活は見えなくなった為、自由の意味が二層化したのでしょう。

つまり、ネット上で誰かが表現物を楽しんでいるのを見ても、それがどのように本人の救いになっているのかというコアの部分が見えないため、他者の自由を表層的に受け止めてしまう。それこそ性的に消費しているという即物的な反応になることがしばしば見受けられる。一方、現実の日本は公共空間では皆が理知的に振る舞いゾーニングを進めてきたので他者の生活は不可視化されている。ネットと現実から見える自由の風景が違う。それが自由の意味を狭めることになる。ようするに二重の自由を取り違えると表現を規制しようという方向に感情が持っていかれてしまうのであろう。

普通に言って、どんな表現にもちゃんと救われている人はいる。この泡沫露悪系クソブログにさえ、読んで救われると言ってくれた人が昔いたのだから、編集や校正を経て世に出てくる表現物に救われる人がいないはずがないであろう。

このような問題が出てくるのはつまるところ他者がいなくなったこと=関係性が消失した、見えなくなったことに原因があると考えられる。インターネットというレンズ越しに見てもたぶん僕達は何も見えてなどいないのだ。誰がどんな表現を楽しんでいるのかわからない。ゆえに表現の自由がどれだけ大切なものかという「リアリティー」が欠如することになる。個人的にも「なくなっても良い表現」がないわけではない。しかしその表現を楽しんでいる人がいると思い、想像力を働かせ他者を見通そうと思うか、そうでないかに分岐してしまう。そうした他者への接続、関係性の話。それが全てではないかと思う。

 

関連して言えば反出生主義の話に関しても、子供とサッカーしていると吹き飛んでいく感覚がある。個人的には「生まれないことが最善」というのは正直言って理解できる部分がある。人よりもその手の話には共感しやすい人間ではあると思う。子供とサッカーしていても「今はかわいいけど中学に入ったらLINEいじめとかするんだろうな」とか思わないでもない。けして頭が良い学校ではないので思春期になればいじめが始まり、すくなくない子は学生時代の劣等感を引きずって、大人になればネット上の言説に触れ反出生主義のようなイデオロギーに飲み込まれもするのかもしれないな、という想像は頭の片隅にあったりする。

しかし同時に「そんなこと言ってもしょうがないんじゃねーの」ということを強く思いもするのだ。社会を恨んだり、適応に失敗したり、鬱病になったり、金が足りなかったり、大人になればなにかいろいろあって存在の話へと里帰りする時もあるけれど、しかし存在そのものである子供と「関係」した時にそのような話は希釈されていく感があるのだ。

おそらくは今の子供たちは自分達の時代よりも厳しい競争社会や地球環境の中を生きていくことになる。そんな子供の存在を見ていると、社会や時代を嫉む反出生主義の論理にたいし存在のレベルから反証されている気になってくるのだ。当然ながら子供は反出生主義など知らず、ただボールを蹴っとばしているだけである。しかしその存在そのものが、反出生主義という存在の問題にたいしてはクリティカルに見えるのだ。大人がどれだけ言葉を尽くしても論理的には反論しようがない反出生主義でも、子供は無言で反論してくる。そして「反出生主義とかそんなこと言ってもしょうがないんじゃねーの」という身もふたもない結論に帰ることになる。

なんでもそうだが、たぶんそうやって誰かと関係し、自己を希釈され、なにもかも結論など出せずよくわからないまま死んでいくのだろう。

 

 

とりあえず、なんだかよくわからないが来週は選挙とやらがあるらしいのでよくわからないまま投票でもしてこようかと思う。みんなも行ったらいいんじゃないかな。よくわからないけど

終わり

*1:はてなからは今後申立者の権利侵害をしないと誓約できれば非表示の解除を検討するとメールがきましたが、ちょうど良い機会なのでそのままにしてます。長年使ってきたのに驚くほど執着が湧かない自分にも驚いているのですが、まあそんなもんだよなと妙に納得してもいます。そもそも権利侵害した覚えがないので誓約できないのもありますが)