メロンダウト

メロンについて考えるよ

日本に右翼なんかいないやろ。リベラルしかいない。

どこもかしこもリベラルの良い子ちゃん。安倍を支持していた良い子ちゃんのリベラルポピュリストと反安倍を歌っていたポリコレリベラルの二択しかいない。

権威に従う良い子ちゃんか権威に反発する放蕩者のどちらかしかいないだろ。

ゲマインシャフトゲゼルシャフトも完全に消滅してもはや家族もバラバラに「尊重」しなければならない時代において右翼なんてのは世界が許さないわけで

 

どこもかしこもリベラルに染まった結果、みんな自由にバラバラになりクラスター化して世界に接続していない個人主義者ばかりになった。思想や支持政党は個人の見聞の偶然に過ぎない時代において右も左ももはや気の迷いみたいなものでしかない。本気で右翼思想を持った人間がいるとしても誤差みたいな数しか生き残っていない。

なにに染まるのかで最も多いのがメディアという権威から得る権威主義的思想なのでそれゆえに自民党という権威に迎合する人もいれば、ネットで真実の反安倍大合唱団もいたりする。

何を支持しているにせよ個人が個人のままいるかぎりそこにはいかなるコモンセンスもないし共同幻想も公共性も存在しないんだから元の元をたどれば全員をリベラルと呼んでさしつかえないだろう。ネトウヨにしても近代化をすすめるリベラルが共同体やムラを破壊してバラバラになった末に脆弱になった個人が吸い込まれた結果であってその意味でネトウヨほどにリベラルな思想はないと言ってもいい。自由主義がすべてのアイデンティティーを並列化し無意味にした結果、個人が持ちうるアイデンティティーは消滅し、日本人という民族にアイデンティティーを求めているのがネトウヨでそれは当然の結果だろう。

 

ポピュリズムにしてもなににしてもすべての問題を個人に帰依させれば今日のような状態になるのは明白であってすべての政治的問題の根本にあるのは個人主義というリベラルに他ならない。

結果として何を支持するかは単なる偶然なんだからみんな自由にやって自由に自民党を支持しているのだからリベラル大勝利というのが現在の日本だと思っている。

みんな自由が好きで自由にやってるんだから自由に公文書を破棄する自由主義政党の自民党を支持するのは当然のなりゆきでしかないわけで。

 

社会における共同体の喪失はコモンセンスの喪失に接続し、倫理の喪失につながる。自民党が公文書を破棄しようが倫理観のない国民からすればそれはもはや問題にはならない。リベラルを敷衍しすぎた結果、政権の自由をも許す国民を生んだのがリベラルにとって最大の皮肉だと言えるだろう。個人が個人のままいれば他者と自己を架橋する倫理観が生まれるわけもない。他者を自分のことのように大切に思い、あまつさえその人の自由を侵しかねない戦慄により生じる思考こそが倫理であって、倫理を考える前に自由主義で切断処理するのが作法とされる時代で倫理が生まれるはずもない。

その意味においては自由という大義名分によって他者を切り離したリベラルこそが森友や桜を見る会の元凶だと言っていいであろう。

 

生活レベルにおいてリベラル的市民は他人のふるまいを「どうでもいい」として切断処理する。他者の自由を尊重しなければならないとは実効的には他人と自分を切り離すことでしか成立しない。おっさんが女性に話しかけることすらもセクハラと呼ばれるのを想像すればよくわかる。自由とは結局のところ切断処理である。他者の自由を尊重することと切り離すことは生活レベルにおいては同じものとなってしまっている。

 

他者は自由だというリベラル的な世界線は逆にも振れることがある。他者が自由だという前提は2つの問題を生む。

ひとつは他者を批判することを許さない状態であり、もうひとつはどれだけ他人を誹謗中傷してもいいという状態である。

前者は前々回の記事で書いたように権威に迎合し、批判そのものを許さない若者だったりすべてを肯定するような平和主義者がそれにあたる。

後者は他者と自己が完全に別ないきものとして存在しているために誹謗中傷をおこなう倫理観のない人々のことであるが、どちらも他者を自由なものとして扱う点でともにリベラルなものだと言える。

後者は倫理の欠如としてとらえられることが多いけれど前者に関しても公共性の欠如という点でもとをたどれば個人主義を蔓延させたリベラルにその原因を求めるべきだと言える。一見真逆に見えるこれらの状態だがその根本は同窓なものだ。

 

自由は人を弱くする。思想的にも政治的にも公共的にも倫理的にも。だからリベラルはもともと自由主義進歩主義がセットになった思想だった。自由が人を弱くするぶん人は進歩しなければならない。しかしいまは自由だけが独り歩きしている。新型コロナの騒動にしても人類は進歩していなかった。

自由とはものすごく大切なものだが同時にろくなものではない。

自他の境界を解除し、自由を「一定程度やめる」。

おそらくはそういう選択がまともになりつつある。そんなふうに思う。

 

anond.hatelabo.jp