メロンダウト

メロンについて考えるよ

年末小考

年末だし考えてることをまとめて書いていこうと思う。

 

・ポリコレとポピュリズムの関係

アメリカの調査で大多数がポリコレに懐疑的といった調査結果が出たみたい。ポリコレで人間を規定していくというやりかたはポピュリズムと密接に関係しているように見える。

ポピュリズムによって人々が何を正しいと考えるべきか教育していくと彼らの投票行動は容易に予測できるようになる。今までは右左の対立だったものがポリコレによってその様相が変わってきている。

特に変わったのがリベラル側だった。保守勢力に比べるとリベラルはふわっとした政治概念であり自由主義であったりプロテスタントであったり進歩主義であったりフェミニズムであったりとリベラルはどこに軸足を置いているのかいまひとつ判然としないところがある。しかしポリコレのように世論による正しさ、データ化された正しさはリベラルのふわっとした概念を侵食していった。ポリコレによってリベラルがふわっとしたままでいられなくなったのがここ数年の政治勢力を書き換えたと言ってもいいように思う。

ポリティカルコレクトネスもまた思想的には何も言っていないに過ぎず、ただの現象でしかないがその現象が現実に影響力を持った時に政治はそれを無視できなくなる。思想的な闘争ではなくポリコレのように非思想勢力が台頭してきてもはやなんでもありになった。

そのようにポリコレによって思想的右左の意味が失われた世界のことをポピュリズムというのだろう。

 

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 ・宮台真司さんの言っていること

 社会学者の宮台さんが若者(特に男性)が劣化している、言葉の自動機械になってる、共同体の崩壊、弱者が連帯できない、人をコントロールしようとする、性経験のなさということを絡めて論じている。

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けっこう過激なことを言って賛否両論わかれる宮台さんだけど僕はかなり肯定的にみている。

男性がクズ化していると言っていることに関してこういうことを言うと差別的になってしまうかもしれないけど男性は先天的に女性よりその有り様が劣っているように感じることがよくある。

僕は男性なので男性視点でしか語れないけどいわゆるホームレスになる人も自殺する人も犯罪する人も圧倒的に男性が多く明らかな性差がある。僕個人についても女性ってなんか優れてるよなと感覚として感じることはよくある。立ち居振る舞いにしても文字の書き方やしゃべり方ひとつとってもそう思う。女性はとても優れている。

それは宮台さんのいうクズについても男性が多いのはそうなのだと思う。

宮台さんは恋愛をコスパで考える男性のことをクズと言っているが男性がそう考えるのは今の社会において納得できるところがある。男性が性欲で恋愛を始めて恋愛は性だけではないことを知って愛について考えるようになって大人になる。コスパで恋愛を考える人もまた未熟であるに過ぎない。いわゆる黒歴史的、中二病的で痛いことなのだけどそういう男性の未熟さを解消できる場所が少なくなっている。それは個人が分断されていることとおそらく関係しているのだと思うけどそうやって正しく成長できる場所や経験がとても少なくなっているのだろう。

女性は性の現場において先天的に特定の個人をみとめその遺伝子を残すことを性の機能として持つけれど男性が恋愛を恋愛としてとらえ始めるのは明らかに後天的な部分がある。その後天性を養ってくれる場所が個人主義社会では消えている。恋愛しないのは自由だといえばそれで終了で恋愛はいいものだぞと言えばハラスメントとして響く。そういう社会で男性がクズ化するのは自明の結果にも見える。

 

 共同体としての仲間、その仲間から感染する他者感覚、その他者感覚によって自己存在が溶けていく。そういう肌感覚として言われる絆のようなものはよくわかるのだけど今は、相手も自分を仲間と思っている条件の内においてしか共同体が機能しなくなっている。ストレンジャー(完全な他者)が自分に侵入してくるのは許せない。そうして内にこもっているので他者が本当の意味での他者たりえなく自己が溶けないみたいな

抽象的に言えばそういう事態なんだと思う。それはとてもよくわかる。よくわかるけどそれを解消するには時代を巻き戻すみたいなことが必要でそれはおそらく不可能なんじゃないかと

上に書いたことにも繋がるけどそういう他者感覚の喪失は他者に侵入することをゆるさないとするポリコレの存在もすこしあるのかなと思った。

 

 

・いきすぎた自由

社会性や人間性なんてものは人間が群れをなすために発明したものでしかないと中野信子さんが仰っていた。かなりラディカルな意見だけどなんか確かにそうだよなあと思った。

上に書いた宮台さんをいきなり全否定するのもどうかと思うけど仲間とか他人ってのはいわゆる重力でしかないんですよね。人間がそのまま自然状態で考えたときに本当に仲間が必要かと言われるとすこし考えてしまう。その重力に潰されて自殺する人だっているしうつになる人もいる。逆にその重力に耐えて鍛えることが人間的な成長となるっていう側面もある。しかしもうその重力いらないんじゃね?てのが僕たちが今直面している問題でもあり希望でもある。人間の悩みのほとんどは人間関係だけど人間関係いらなくね?て言えちゃう日がくるかもしれない。

孤独ってすごいネガティブな意味で使われるけど本当はみんな孤独になりたいから無人レジをつくったりコンビニや牛丼屋などが売れているんじゃないかなあと。

仲間や他者は重力であって例えば宇宙空間のステーションに長くいた人は筋肉が衰えてしまう。孤独な人は仲間が大勢いる人より堕落しているように見えるのもそうかもしれない。それは他者という重力が孤独な人にはかからないので筋肉量ならぬ適応力が比較的すくなく見えてそうなる。だけど別にそれは悪いこととは言えない。他者の重力に耐えて自己を鍛えてる人はなんか頑張ってんだなあぐらいの見方もできてしまう。

だけど仮に全員が孤独に生きてもかまわないように社会がデザインされた場合、どれほどの人が不確かな他人と関わって生きることを選ぶのだろう。

そういう自由が実装できる社会になった時に僕たちははじめて自由の代償を知ることになるのかもしれない。みな孤独で重力がかからず腐った顔で凝り固まった考えを持つかもしれない。その時に不自由こそが大切だったなどと言われるようになるかもしれない。しかしその時にはもう不自由することができないほど自由になっているとしたらそれは天国なのか地獄なのかそんな無駄なことを考える。

 

それはそうと早くお餅食べたいな。