メロンダウト

メロンについて考えるよ

過剰包摂社会とはなんだろう

あけましておめでとうございまする。このブログもなんだかんだ長いこと続いてます。個人的にもこれほど何かをやりつづけたことはそんなにないレベルで続いています。けっこう飽き性なほうなんですが気兼ねせず書いているおかげかもしれません。

やめるまでやめない予定ではありますので、今年もグダグダと書いていきます。そんなに更新頻度が高くないので思い出した時にでも読んでやってください。

 

 

前回記事でも書いた宮台真司さんがゲンロンカフェに出演するというのでニコ生のタイムシフトに課金して見ました。

西田さんがちょっとやりにくそうにしてたのが面白かったのですがそれはそれとして宮台さんが過剰包摂について語っていたのが印象的でした。

現代社会においては富裕層も貧困層もどちらもスターバックスでコーヒーを飲んでいてその差が見えなくなっている。誰しもがその空間に「包摂」されていることを指して過剰包摂と仰っていました。

 

スマートフォンにおいても同じことが言えるかと思います。

A君は友達にラインを送っている。

B君はニュースメディアをザッピングしている。

C君はソシャゲの廃課金ユーザーだ。

D君は資産運用のポートフォリオを考えている。

E君は電子書籍を読んでいる。

 

やっていることは同じだけどどの人もスマホをいじっていることは変わらない。主観的に見る世界は違うが客観的には同じ行動をしている。

主観的世界と客観的世界が捻じれていること、それを過剰包摂社会と呼ぶことができる。

他にも例えばブルーカラーとホワイトカラーの垣根がなくなっていたり、みんな同じ自動車に乗っていることも過剰包摂を説明しうる事例になる。

 

これの何が問題かというと宮台さんは弱者が弱者として連帯できないことだと言っていました。以前はあの人は弱者だと外見的、生活的に認識できていたものが今は誰が弱者で誰が富裕層なのかがかなりわかりにくくなっている。放送を視聴していた時に確かにそうだよなあと思いました。

みんなユニクロを着ているしみんなAOKIのスーツを着ていて一見してその人が弱者なのかどうか判断することはかなり難しい。多様性の時代なんてことも言われているけれどそれは主観的世界のみに限定されていて客観的にはかなり平等で一様な世界になっているように見える。

それはもちろん良いことでもある。お金がなく服が買えないで世間から蔑まれるよりはそういう人がユニクロで服を買ってとりあえず社会の一員であるという体裁を取り繕うことができるのは良いことではある。

 

しかしそうなると逆に自分と同じ立場の人間を見つけて連帯することが難しくなってくる。フランス革命のころから民主政治は弱者の連帯においてその権利を勝ち取ってきた歴史があるけど、今は弱者が弱者として連帯することが難しい。

弱者が集まってもみんなユニクロの服を着てスマホを持っていればなにが弱者なのか判然としない。そしてもっと問題なのは生活が困窮している当事者ですら自らが弱者であるという意識がラベリングされて自覚できないことにある。アベノミクスグローバル化でこれだけ格差が広がった現状においては弱者が連帯して政治的な影響力を持つことが大切に感じるがそれが難しくなっている。

 

この話を聞いて山本太郎氏の演説を思い出したけどそうなると弱者の敵は弱者となって弱者同士の分断が始まるのだなあと。

10:00あたりから。冒頭でヤジを飛ばしていたおじさんに言及してなぜ弱者同士で争わなければいけないのかと泣いている。

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弱者が抗するべき敵というのはおそらくいる。それは確かにいる。新自由主義政策を実行し格差を拡大した竹中平蔵だったり消費税をひきあげた安倍晋三だったりリーマンショックを起こしたリーマンブラザーズおよびアメリカだったり。

しかしそういう結果論としてしか糾弾しえないような敵を敵として設定できるほど単純な世界でもない。

そうなると意味のない対立をつくって弱者を細分化してクラスタごとに連帯して違う側の弱者を仮想敵として叩いて溜飲をさげるみたいなことがそこかしこで起きてくる。

ミソジニーフェミニストとか表現の自由フェミニストとかリベラル対リベラルとか立憲対希望の党、パチンコ対反パチンコなどなど

 

客観的には彼らはみんな同じユニクロの服を着て同じようにスマートフォンを使い同じような部屋で同じように生活して包摂されているように見えている。

誰が何をしていようともスマートフォンを使うことはスマートフォンを使うこと以外のことではない。誰がユニクロの服を着てもその人はユニクロの服を着ている以上の属性は付与されない。

しかし主観的な意識としてはみな自分が虐げられている側だと思っている。ミソジニーも、フェミニストも。誰もが虐げられているように感じるのは世界がその客観的様相とは捻じれてそのじつ、窮しているからだ。女性が社会に進出できないのは中間管理職でしかないセクハラおじさんが悪いとは考えようによってはひどいジョークのようにすら響く。

 

誰もが包摂され誰もが弱者でありその誰もが弱者に見えない社会において弱者同士が連帯し、本当に問題となっている「何か」を変えるのはこの世界の条件的に無理なのかもしれない。

だから安倍政権が3期も続いたりするのである。合掌。