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鍵かっこつきの社会~アメリカの分断と日本の分断と貧困について緊急事態宣言下のパチンコ叩きから考える~

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いろいろ思うところはあるんだけど、はじめに感じたのが経済格差はまだしも心理的な不寛容度で言えばアメリカより日本のほうがひどいということだった。

リベラルは怠惰な隣人が酒に溺れようが薬漬けになっていようがどうでもいいと考えていると書かれているけど、こういう自己責任論や他者にたいする無関心は日本のほうがはるかにひどいのではないだろうか。貧困にあえぐ隣人のことを気にも留めない人がリベラルと言えるのかどうかという言葉の定義の問題は別にしてこの手の問題を言うのであれば日本のほうがはるかに深刻だろう。

貧困を自己責任だと考えている人の割合はアメリカよりも日本のほうが高くてたしか20%ぐらいの開きがあったと記憶してる(検索しても数字が出てこなかった)。

アメリカは経済的な格差が日本の比ではないので生活水準においてすでに分断が起きていて誰が貧困で誰が富裕層なのかわかりやすい。なので分断を政治的問題として捉えることができる。

しかし日本では分断がないかのように社会をデザインしている。すこし前にホームレスが眠れないように公園のベンチを加工した問題があったけれど、それだけではなくネットカフェ難民なども同様で普通の人々の視界に入らないように貧困をゾーニングしている。このへんのことは開沼博さんの『漂白化される社会』にも書かれている。

また、貧困者や独身者でも利用できるサービスも充実していて牛丼屋でご飯を食べてユニクロの服を着ていればその人が貧困であるか傍目にはわからない。このように貧困を社会に過剰に包摂していることを宮台真司氏が「過剰包摂社会」と呼んでいて日本では誰が貧困なのか極めてわかりずらく、そのために貧困者同士での連帯が難しくなっていると指摘していた。

たしかに普通に生活していてもあの人は貧困だと認識できることは極めて少ない。日本の子供の7人に1人は貧困だというデータもあるけれど街を歩いていてあの子は貧困世帯の子どもだと認識できることは今はまずない。自分が子供のころはまだ子供の身なりでもなんとなくわかったものだけど今は難しい。それはたぶん良いことでもあるだろうけど、一方で別の問題を生んでいる。それが過剰包摂の意味するところなのだと思っている。

なので貧困については普通に生活していても見えないために貧困について見聞を集めるには直接そういう場所に行くか、メディアから知識として知るしかないために貧困を自己責任だと考えている人が日本ではかなり高い。一度、西成の簡易宿泊所や都市部のネカフェ難民が住むところなどに行ってみると良い。僕はどっちも行ったことがあるけれぢかなりきついだろうことは容易に認識できた。

その点でアメリカの分断よりも日本の分断のほうがある意味では深刻だと考えている。日本では貧困を社会の外に押し出すか、もしくは社会の内に過剰に包摂するかの二択になっていて貧困を貧困として直接捉えることができない。しかし水面下では着実に進行していたりする。

 

リベラルが隣人を救わないのは「べき論」みたいな感情論がそこに混じっているせいだと考えている。社会に奉仕される人間はかくあるべきだ、私たちの税金を使う人間はかくあるべきだといった不平等がある。上記記事ではリベラル支持層は貧困にあえぐ隣人を救わないと書いているけれど、一方でアメリカでは退役軍人にたいしては寛容だったりする。軍人が戦地でのトラウマからPTSDにかかり貧困にあえぐというのはアメリカではよく知られたストーリーだけど、それも結局は「救うに値する」といった値踏みによってなされている側面があるのでこれもべき論だと言える。

 

日本でもこのように物語や文脈に依存して誰を助けるべきか誰を助けないかを選別しているのは変わらない。たとえばかなり馬鹿馬鹿しくひびくかもしれないが今の日本の状況で考えるならばGotoトラベルやGotoイートがありながらGotoパチンコはない。パチンコ屋に税金を投入してまで救わないの当たり前すぎるかもしれないが、そうやって当たり前に思うほどに非道く無関心なのだろう。パチンコ屋が潰れてしまってもどうでもいいのだろうし、あるいはパチンコ屋がつぶれて失職する人間のことなどどうでもいいと考えている人が大勢いるし誰も関心を持たない。報いみたいに考えている人もいるかもしれない。そうやってパチンコ屋が潰れて失職する人は助けない一方で子供の貧困は助けるべきだといったべき論が支配しているうちは何も変わりはしないだろう。国家は誰も彼をも助ける義務があるが、国家を運用しているのは国民なので国民がべき論で考えているうちはその「べき」から外れている人が助かることはない。

緊急事態宣言が出された時にパチンコ屋が槍玉にあがってテレビなどでも連日報道されていたのは記憶に新しい。パチンコ屋もいまや小売りやアパレルと同じで寡占化していて大手企業以外は経営状態もギリギリなところが多い。そのためかどうかはわからないが緊急事態宣言下でも経営していた店があり、その店にたいして批判が集中していたけれど、潰れてもいいから社会のために店をあけるべきではないなんてホームレスを公園から追い出した思想そのままではないか。

おそらくそうやってすべてを適切化していくのだろう。ハラスメント問題にしても恋愛にしてもコンプライアンスにしてもすべてを適切に整地してその場所に適わない人を侵入させないことによって「我々の平和」は維持され、その横でネットカフェ難民が苦しんでいようがパチンコ屋がつぶれていようがどうでもよくて我々が助けるべき人は我々が決めるというエスタブリッシュの傲慢によって「鍵かっこつきの社会」は続いていくのである。鍵を持たない人間を犠牲に。

タワーマンションとネットカフェ - メロンダウト