メロンダウト

メロンについて考えるよ

鼓舞と慰撫の間で

ツイッターをクロールしてたらナンパ師界隈が少子化を憂いていた。

 

 

 

 

 

AVを規制しても少子化が解決するとはあまり思えないけれども、この議論の正誤はともかくとして「別解を規制すれば正解に辿り着く」はやりがちな発想だなと思った。フィクション(AV)を規制すれば現実が再度立ち現れてくるみたいな話ってたとえば香川県でゲーム規制をやった議員も同じような考えだったと思うけれど、そんな単純に解決するような話ではないんですよね。インターネットを規制すれば現実のコミュニケーションが復活して共同体が再興するなんてこともない。核を廃棄すれば核なき世界が実現するなんてこともない。少子化も今の時代背景や社会制度と不可分で不可逆だからこそ困っているわけで、それらと「どうやって」関係していくかが全てであるように思う。ガラガラポンしてゼロから始める異世界生活のようにはいかないから難しい。

生活上ではそれこそこんまり式メソッドに従って必要なものだけを取捨選択していけば良いし、AVを見ないでナンパしてモテるようになるのもすごいことだと思うけれど、社会的な議論では個人がそうするような取捨選択をしてはいけないし、するべきでもないし、もっと言えばできないから弁証法だったりアウフヘーベン的なものが必要になってくる。仮にその個人の戦略が幸せになる道だとしてもその正道を歩めない人とも折り合いをつけるのがそれこそ多様性であるわけで、何が正しいか、何が幸せかと言った瞬間にその意見はラディカルなものになってしまい、一気に瓦解してしまう。

つまり個人の人生は選択の連続で、選択しなければならないし選択するべきであるけれど、他方、選択に耐えながらそれでもなおというエクスキューズをつけながら選択するのが社会や政治だと思うわけである。

AV規制の話もAV新法で規制した結果何が起きたかを見るに規制すれば万事解決するなどということは、まずもってない。

 

 

それよりもナンパ師界隈や自己啓発界隈を見てて思ったのだが人生を向上するメソッドやマインドセットが相変わらずウケていることのほうが気になってしまった。

これだけ治安が良くなり社会がのっぺりしていくと波風がたつようなイベントが起こりにくくなるので自らを鼓舞するための「動機付け媒体」をインターネットで集める人が出てきて、その需要に答えるために供給側は年収1億のようなわかりやすい成功者像をつくりポジティブお化け的なセルフブランドをツイッターで喧伝して商材に呼び込むのがビジネスになっている。いわゆる「鼓舞コンテンツ」である。

他方では現実の社会で虐げられた人々が抱えるルサンチマンにたいする「慰撫コンテンツ」が人気を博しているのがもうひとつのツイッターの顔でもある。弱者の立場を言語化することがビジネスになるし政治にもなっている。それらの弱者論は言語化という点では意義深いものである一方、その弱者論の痛快さは既存の社会にたいするカウンターとして機能しながら、それ自体が慰撫として機能しているのも無視できない。つまり、よく言われることだが、論は論でしかなく「インターネットでいくら騒いでも現実は変わらない」に結局のところ行きつくのが弱者論の限界でもある。無論、だからと言って言論に意味がないなどと言うつもりはないが、とにかく弱者論は慰撫コンテンツとして機能している側面「も」あるということだ。

 

 

波風が立たなくなった世界にあっては鼓舞によって駆動され、同時に波風の立たなさを慰撫によって消化する。

その二層構造のどちらに行くかは、言ってしまえばたいした問題ではないように思う。

杓子定規的に年収一億のほうが非モテよりも幸せだとみんなそう考えるし、僕もそう答えるけれど、冒頭の年収一億のナンパ師になりたいかと言われればなりたくはない。端的に言ってなにか窮屈そうだなと思うからだ。そして彼も僕になりたくはないだろう。こんなに長年社会のあれこれをブログに書いている僕のほうが客観的には窮屈そうである。

なんにせよ彼我の差を埋めることはできないし、結局のところ慰撫でも鼓舞でも何を使ってもかまわないが人は自己の特殊性や蓋然性を「なんとかする」ことでしか幸せになれないのではないかと思うのである。

それは唯我独尊のようなエゴイズムとも違い、他者によって与えられた慰撫と鼓舞、ナンパ師的作為と非モテ論的不作為のどちらもが必要な営為だったのだと振り返ったりし、その愚かさを懐古することで人間は開かれていくのではないか、みたいなことを思う。モテないのはつらいし場合によっては不幸なことなのは重々承知しているけれど、モテない人の気持ちや境遇を想像できない人間も同じぐらい不幸であって、平たく言えばナンパ師になってモテるようになった人がよく言う「○○さんのおかげで非モテを脱出できました」みたいな話もつまるところ自分の話しかしていない時点で非モテと何も変わらないように見えるのである。

 

結局、慰撫や鼓舞、ネガティブやポジティブなど二項図式的な人生譚は世に溢れていて、たまたま目にしたそれらのコンテンツや物語に触発され右往左往するのが人間の精一杯で、最終的にはその両義性を抱えることでしか人としての間を守ることはできないのではないだろうか・・・なんてことを考えてはみたが、大袈裟すぎるな。

そんなことより誰か一億円ください