メロンダウト

メロンについて考えるよ

子供とおばあちゃんの冗談関係

一番最初の友達って誰だろうと考えた時、僕の場合、おばあちゃんがそうだった。おじいちゃんは生まれた時にはもういなかった。おばあちゃんとは物心ついた時には一緒に寝ていた記憶がある。幼少期にはおばあちゃんの膝の上でご飯を食べていたりした。小さい頃、家が安心できる場所だったのはおばあちゃんがいたからだった。

 

高齢化が社会問題になり、最近も成田悠輔さんの発言が話題になったりしているけれど、いわゆる生産性とは関係ないところでおばあちゃんが果たしていた役割は重いのほか大きかったのではないだろうか。最近、とみにそんなことを思う。

今は核家族化が進み高齢者と同居している人は少なくなっているけれど、言い換えればそれはおばあちゃんがいない家庭がほとんどになっているということでもある。おばあちゃんは家庭の外部に配置され、生活を共にする人ではなくなっていった。お盆や正月に実家に帰って会うだけの人になった。つまりおばあちゃんが外部化されたのが今の状況だと言える。

外部化とはつまり社会化とも言えるが、おばあちゃんが社会化された存在になるとそこに資本主義の論理である生産性などのパラメーターを充当することによっておばあちゃんが資本主義的に指標化された存在になってしまう。

つまり、核家族化が進みおばあちゃんが家庭から切り離されたから高齢者が生産性で測られるようになったことで高齢化社会がかぎかっこ抜きで議論されるようになったのではないか、といった懸念を覚えてしまうのだ。もちろん単純に高齢化が進んだから高齢化社会が問題になっているのが主だった理路ではあると思うけれどおばあちゃんが家庭からいなくなったことによる視座の変化も無視できる要因ではないように思う。

 

高齢者問題にたいする視座を並べてみると

家庭という原風景からおばあちゃんがいなくなったことで高齢者にたいする感性がなくなったのか(感性の問題)

あるいはその感性すら爆散してしまうような現実的問題になっているのか(現実の問題)

もしくは資本主義を内面化しすぎて設計主義的におばあちゃんを捉えるようになったのか(資本主義の問題)

およそ考えられるのはこの3つであるが、高齢者の問題を論ずる人がどのようなバックグラウンドでそれを問題にしているのかを見つめないと、たとえ高齢者が少数になったとしてもおそらくは同じことになる。何も解決しない。

というのもおばあちゃんが生産性では測れない役割を担っているという記憶が核家族化の波にさらわれてしまえば高齢化社会ではなく高齢者の存在自体が問題とされても不思議ではないからである。

 

いくら社会保障費や年金が上がったとしても所詮は金と労働力の問題であるが、しかしながら「おばあちゃんの記憶」を忘れてしまえばそれを取り戻すのは困難を極める。そうなってからでは遅い。感性は一度失われてしまえば取り戻すのは極めて難しい。

現役世代にあっても過去より今のほうが生産性や能力によって測られることが多いように思うけれど、自然に推移すれば同じように高齢者にも資本主義が敷衍していき生産性という杓子定規があてられることになる。現役世代で恋愛が減少していっているように「おばあちゃんへの感性」も摩耗し消滅していってしまう危険性は考えるべきであろう。果てには高齢者の集団自決のような話も比喩から直喩へ、そして直言へと変化していく可能性がある。唯一それだけは絶対に避けなければいけないはずである。

 

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家族論的に言えば、父が父性・母が母性を子供に与えるのとは別に、おばあちゃんと子供の関係は「冗談関係」にあたると言われる。最初の友達というのも同じような意味で、家庭にあって父は父であり、母も母でしかない。子供にとっての両親は生存のために絶対に離れることができない存在で、それは裏を返せば親は子供から勝手に権威付けられてしまうということでもある。離れ難い存在だからこそ難しく愛情が必要になってくるのだと思うけれど、そこにおばあちゃんがいれば時に真面目になりすぎてしまう親子関係から子供が逃げる場所として機能することが期待できるし、実際そうやって家庭の中で役割を担っていたのが高齢者であるように思うのだ。

ようするに親子関係は程度こそあれ「真剣な関係」になってしまうが、その真面目な空間に一息つける場所としておばあちゃんとの「冗談関係」があったのだろう。経験的にはそんなふうに思う。

 

 

こうした家庭環境の変化はたとえば反抗期の減少からも読み取れるもので、今の若い人は核家族の中で暮らしており、友人とも性愛の話をしないと見聞きするけれど、それは言い換えれば親に反抗する「足場」がなくなってしまったようにも見えるのだ。

古いところで言えばいわゆる暴走族は、それが良いものか悪いものかは置いておいて、学校や家庭という真面目な環境とは別のコミュニティーがあったからこそ反抗をすることが可能だったのだろう。良いか悪いかは別にして暴走族という居場所があるからこそどんなに学校や社会から弾かれてもかまわなかった。他方で今の若い人は物分かりが良い人が多いように見えるけれど、そのコミュニカティブな態度はどこかポーズをとっているようにも見えるし、場合によっては防衛機制のように映る。親子や学校に閉じられ、そこから弾かれることにたいする緊張に晒された結果鍛え上げられたコミュニケーション能力は逃げる場所がなかった環境における訓練の賜物のような気もするのだ。普通、子供は子供なので子供らしく振舞うことで色々学んでいくものだと思うけれど、発達の作法が行き過ぎると子供はとんでもない速度で成長していく。それは外形的に見れば早く大人になるということで、好ましいものにも見えるが、果たしてそれで子供は自由と言えるのだろうか、なんてことを考える。

もちろん暴走族が良いなどと言うつもりもないが、おばあちゃんのような親子とは別軸の居場所があることが子供にとっては「第三セクターとしての心の拠り所」になり、精神の健康に資するのではないだろうか。そしてそれはなにかとんでもなく大切なものなのではないかと、そのように記憶しているのである。

 

※すこし読みにくなった箇所があったので加筆修正しました