最近、ツイッターで「女性から教育を奪えば出生率が改善に向かう」的なツイートを見た。少子化に限定して言えば家父長的なモデルを復権して女性を生む機械にすれば多少なり解決に向かうだろうけど・・・そもそもそんな社会で誰も生きていたくないでしょう。女性に限らず男性も。生まれてくる子供が女の子だったらどうするの?で終わる話でしかない。そんな簡単な想定すらも無視し、人間を駒として配置するような愚論であろう。
人権にもとるので唾棄すべきなのは間違いないけれど、このような過度に論理的な考えはそもそもの社会的前提を考慮していないんですよね。
女性から教育を奪えば出生率があがると言う人の背景にあるのは「女性は上方婚指向が強いために少数の強者男性に集まるのでマクロな人口動態においてはマイナスに働く」というものである。さらに、「パワーカップルと呼ばれる人達は結婚を通じた経済的格差の解消に寄与しない。そのため、女性から教育の機会を奪うことでパワーカップルが生まれるのを防ぎ、上方婚であったとしても男女間で結婚を通じて格差を埋め合わせる家父長制が望ましい」みたいな話だけど
これは資本主義と個人主義を前提にしたものになっている。女性が負の性欲にもとづいた合理的な恋愛をするかぎり、女性は資本的に強い男性を選ぶことになり、それは個人主義によって是認されるという論理になっている。論理的にはそうなのでしょう。事実として女性から教育を奪って生む機械にすれば少子化は改善に向かいそうではある。
しかしながら資本主義にも個人主義にも懐疑的な僕から見ればこうした前提条件がおかしいように見えてしまう。
前提条件のおかしさを無視して資本主義や個人主義を自明のものとして論理を組んでいることに違和感がある。なぜ資本主義や個人主義を部分的に見直すべきという論旨にはならず、「女性から教育を奪え」といった飛躍した発想になるのか。そこからしておかしいのである。人口動態などマクロなことを語るのであればその背景にあるさらにマクロな問題までをも見通さなければ解決策も見えてこないはずだ。
「女性から教育を奪え」と言っている人はごく少数であるけれど、過度に論理的な意見はたいがい「どこまでが自明の前提であるか」を恣意的に線引きしているので詭弁と言っていいものである。
女性から教育を奪うぐらいであれば共産主義にして私有財産など全部廃止してしまったほうがベターであろう。まともに考えて。そうすれば格差もなくなって上方婚もなくなる。もちろんそんなことは現実的に不可能なので次善の策を探っていくしかないのであるが、女性から教育を奪うのが最悪の選択であることぐらい瞬時にわかりそうである。ツイッターの「どちらが論理的かゲーム」にマジレスするのもどうかと思うけれど、こうした詭弁術には注意したほうが良い。やたらとうまい人がいるので。
マクロな物事を語る時にはさらにマクロな制度、自明性、概念などが裏に存在しているのだからそこに着手しないかぎり論理とはつまるところ机上の空論でしかない。それが社会的な議論かのように偽装されている。普通に言うと、それをまともに受け取ったら駄目である。ツイッターは短文ゆえに議論のフェーズが限定されるし、それが固定されたうえで議論してるのだろうけどああいうのは若い人だとまともに受け取ってしまうからやめたほうが良いと思う。そんなに単純な話ではないのだから。
女性から教育を奪えば出生率があがる駄論については唾棄すべき以上だけど、少子化改善のヒントになるのが斎藤幸平さんが『人新世の資本論』で書かれていた「公富」だと思っている。
このブログにも何度か書いたけれど、日本から共同体が失われたと言われて久しい。国と個人に分断され、個人が困窮した時には一足飛びで国に助けを求める歪な状態となっている。もちろんNPOなどの支援団体もあるにはあるが、いまや本来的な意味で緩衝材になるような共同体はほとんどない。個人は個人の欲望のままに生きるのが個人主義社会のそれであり、そのような社会においては恋愛すらも個人対個人の取引関係で成り立つようになっているため、そこから漏れる人が出てくる。ゆえに少子化になる。少子化は資本主義と個人主義の副作用とでも呼ぶべき問題である。それは各所で言われている。社会が恋愛できるような環境ではすでにない。なればこそ資本主義と個人主義を「和らげる」ような措置が必要であろう。
個人を個人として孤立させないで済むように共同体を再考すべきであり、そのために斎藤幸平さんの「公富」という概念がとても役にたつと考えている。斎藤さんが書いていることはコミュニズムの復権であり、人々が仕事や資本に縛られないでも生活できるような社会をつくろうという提案だ。そのためには今のような「国富」と「私富」だけで構成される社会の富のありかたそのものを再考すべきであると書かれている。国と個人あるいは法人によってすべての財産が所有される社会においてそこに共同体が存在する余地は「資本の前提からしてすでにない」のである。そのような資本のありかたを再構築し、公富という制度を導入することで後発的に共同体も再建しうると書かれている。
これは少子化の議論においてもかなりクリティカルな話ではないだろうか。公富を導入することにより「資本の権威をひきずりおろす」。そうすれば男性が資本価値によって査定されることも少なくなり、女性が上方婚する必要もある程度はなくなるであろう。斎藤さんがそうしているように真にマクロなレベルで社会を見通せば「女性から教育を奪う」などといったものがいかに馬鹿馬鹿しいものか、瞬時にわかる。
最近はもう国、個人、資本、インターネット、グローバリズムは限界だと思っている。五輪における国の対応を見てもそうであるし、環境問題やSDGsを見ていてもグローバリズムがいかに危ういものかがわかる。ポピュリズム、ポストトゥルース、フェイクニュースなど政治的な問題も各国で顕在化しており、資本主義が限界であることもさんざん書かれている。能力主義も批判され、インターネットは形式主義によりエコーチェンバーを誘発する装置になっている。そのすべてをもってして人々は「個人の生存戦略」に追い込まれてしまっている。上方婚もその一種なのであろう。私は女性ではないので女性が負の性欲を持っているのかは知りようがないけれど、思うにそれは結果に過ぎないのではないだろうか。経済的立場が弱い女性が強い男性を求めるのはよく理解できる。その意味で負の性欲は社会における結果であり、生存戦略だと言える。
そして負の性欲が個人の生存戦略であるならば、個人を個人として孤立させている社会の構造そのものに着手しないかぎり、資本主義という戦場でリソースを奪い合うだけとなる。そして必ず誰かが割を食うことになる。「女性から教育を奪え」というのも女性が割を食うほうがベターだという話なのだろう。
しかしながらそのような話をいくらしたところで「資本主義というゲームのうちで個人を再配置」という話の域を出ない。
私達の社会はそもそも論として理念的に見直さなければならない。それがこのブログでおよそ一貫している僕の立場でもある。