メロンダウト

メロンについて考えるよ

慈悲的差別と差別感情の哲学

慈悲的差別の記事読んでなるほどなあと関心しました。

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同時にこういう逆説的に差別を論じてその表裏がいかに危ういかを論じていた本があったけどなんだっけか考えていたのですが

中島義道さんの「差別感情の哲学」がそれだと思います。。

この本以外にも「善人ほど悪い奴はいない」などにも同様の内容が書かれています。中島さんの哲学を通して語られていることは善と悪の二重性でありすべての物事には表と裏があること。そしてその表と裏は一体であり、表が善で裏が悪であるといったような感覚はすべてその面を眼差す側が立っている場所によってのみ決定されうる。感覚的善性を論理的に批判することが中島さんの本に書かれていることでした。

ずいぶん昔に読んだっきりなので具体的内容は覚えていないのですが抽象的な言い方をすればそのようなことが書かれていたと記憶してます。

中島さんだけでなくこのブログで書いたフーコーも狂気と理性の関係において狂気は狂気のみであらわれることはなく理性側の眼差しによってのみ現前するのだと書いています。

SNS社会とミシェル・フーコーと理性の逆流 - メロンダウト

 

 

慈悲的差別もそういう類いの話なのかもしれない。読んでいてそう思いました。

いわゆるミクロに正しい行動がマクロに正しい行動とはならない。ミクロに正しいとされる慈悲的行為はマクロには差別を生む土壌となりうる。その通りだよなあと。

 

愛情なども典型的でミクロに誰かを愛することはマクロには誰かを愛しえないと決定することになります(論理的には)

例えばアイドルが結婚した時にファンはショックを受け茫然としてしまうといった事態がよく見られます。そのような事態をひきおこすのであればアイドルは結婚しないほうがマクロには正しいはずです。何万人といるファンの落胆を総量として見積もったら結婚した2人の幸福の総量よりもファンの落胆のほうが大きくなることは間違いない。マクロな視点で功利的にのみ考えればアイドルは結婚すべきではないと言えてしまい、これも合成の誤謬と言える。けれどそれが同時にいかに馬鹿馬鹿しい言説かも僕達は知っている。

 

ミクロに正しい行為がマクロには正しくない行為となる。合成の誤謬のもともとの意味で言えばミクロな個人は貯金したほうがいいけれどマクロではみんなが貯金すると経済が回らなくなる話もそのひとつと言えます。

 

こういったミクロな行為が意図せずにマクロに悪影響を及ぼす話は特段珍しいものではないような気がします。というかめちゃくちゃある。

 

たとえば「夢」も差別構造を生み出している

やりたいことを見つけてやりたいことをやりなさいといった常套句があるけれどミクロには夢を見つけた個人は彼の人生を良い人生にしうる。しかし夢を見つけることが大切だといった言説が流布されると同時に夢を持たない人は駄目だといった差別感情を生むことにもなる。つまり誰かが「夢は大事だ」などと言った瞬間にそれは差別であると言える。

他にも結婚しているかどうかもそうだしもっと言えば日本人であることを誇りに思うといったナショナリズムにも差別をつくる土壌がある。あとは可愛いなんかもそう。

例をあげつづければキリがないけれどすべての価値観やテーゼといった種類の言葉はすべからく差別的であるとすら言えてしまう。

 

慈悲的差別が問題としているのもまさにそういう構造上の問題と捉えることができます。

親切心からくるミクロな善行がマクロには差別を生み出していることを慈悲的差別と呼んで女性は駄目だといった個人による絶対的な心理的差別を敵対的差別と呼んでいるけれど

敵対的差別もまた慈悲的差別によって起きていると考えることができます。

ミクロな善行がマクロな差別を生みマクロな差別的言説が流布されるとミクロな個人に「差別的思想」を与える。つまり差別感情は還流するのであってそれは善と悪といった表裏が存在する限りなくなりはしない。

ここでいう善と悪はもちろん女性差別のことであるが女性を差別するのは駄目だと言ってその考えに基づく善行を行った時にその善行はマクロな還流を経て別の個人が悪行として採用することになる。その還流した結果起きている事態にミソジニーがあるけれどそれが典型と言えます。

善行を行える余裕のある男性とその善行を受ける女性とその善行がいかに差別的かを眼差すミソジニストがいてそれはすべて同時に存在してしまう。

 

これは何も女性差別に限った話ではない。

ネット右翼ナショナリズムの負の側面にも同様のことが起きている。日本を誇るべきだといった善き考えがマクロには民族主義となりそれは容易にミクロに還流し嫌韓、嫌中といった事態を引き起こす。

 

「価値」として提出されるものにはほぼすべてに原罪としての悪性が付与される。

しかしその価値が差別構造を生むとしてもその価値全体を否定するものになるかは検討する必要がある。それを諦めるのか、それともそれと付き合っていくのかが唯一の選択であってそれが善であるか悪であるかは前段として間違っているのでしょう。事はそれほど単純ではない。それを僕達は知るべきだと言及記事は教えてくれた。

 

国家という概念が差別的な性質を持つことは書いたけれど僕達は国家そのものを否定したりはしない。それには様々な要因があるけれど社会保障や公共事業、年金など差別をおしてでも維持するべきと多くの人が選択しているからだと言える。

 

これが男女になると途端にややこしい話になってきます。女性が弱い存在で保護されるべきだといった考えは言及先記事でも書かれていた通り、女性を優遇し下駄をはかせるべきという結論になる。男性が女性に奢ったり優遇したりするのもこの保護的観点からなっている。しかし女性を優遇することは男性への差別だという問題も同時に出てくる。

そうなると女性に下駄をはかせなければいいではないかとなるが自然状態で男女が競争したら男性が支配的になる。

つまり女性に下駄をはかせるかはかせないかがフェミニズムにおける選択であるがそれは同時に男性差別をどうするのかこそが問題となってくる。女性を優遇することは相対的に男性を冷遇していることになるが女性を優遇しなければ男女平等とはならない。フェミニズムはそういうジレンマを抱えている。

 

しかし僕はこの問題は早晩解決するのではないかと楽観的に見ている。今の労働環境において男性に優位性がある職種はそこまで多くない。過去そうであったように自然状態で男性が勝つ資本主義の構造は遠からず終わるんじゃないかと思っている。

サービス業などでは女性のほうが労働者として優位性があるので女性に下駄をはかせる必要はなくなる。その女性の優位性が女性の身体的に不利な条件(生理、出産など)と相殺して男性と同程度の生産性を持つようになり労働環境における男女平等は勝手に実現するのではないかと。

仮に女性が優位になったらその時は女性は男性に食事を奢るなど優遇するべきとなる。女性は男性のように平等にふりまく性的な動機が少ないのでそうはならない気がするけれど。

しかしまあなんとか頑張って生きていこう(てきとう

 

長くなったのでまとめるとミクロな善行はミクロに留めておいてマクロには還流しないほうがいい場合もある。

結論を言えばアイドルは結婚を報告しなくていいってことですね