メロンダウト

メロンについて考えるよ

岡村隆史と量的差別、質的差別

周回遅れだけれど書いていく。岡村さんの風俗嬢発言についてだけどどちらが被害者なのかわからなくなってきた。

いろいろな意見を見てどれも岡村さんの発言が下劣だと書いているけど僕は別に岡村さんの発言が下劣だとは思わなかった。ただ彼は不景気になればかわいい風俗嬢が増えるという現象のことを言っているにすぎずそれを彼の立場(独身の風俗利用者)から見て喜ばしいのは当然のことだろう。

たとえば好きな人が彼氏と別れたら彼女自身は傷つくだろうしその感情には寄り添う。けれど同時に自分と付き合うチャンスができるとも考える。彼女が泣いているのは悲しい、でも別れたのは嬉しい。そう考えるのがむしろ普通の人間が持つ心の動きではないか。

つまり岡村さんが「コロナで不景気になるとかわいい女子がお金なくなって風俗にくる」と発言したとしてもその発言を持ってただちに彼は貧困のことを考えていないと断定することはできない。

人間は同時に矛盾した感情を持って生きているものでその矛盾をついて彼はこう考えているに違いないとすることは想像力に欠けている。あいつはああいうやつだという紋の切り方を特にネットではやりがちだ。誰も彼もそんな単純に生きているわけではないだろう。よく本音と建て前という言い方をするが本音も建て前も両方を本気でそう思っているのがむしろ普通だ。かわいい女性が風俗にはいってくるのは事実そうなるという予測でありその予測にたいしてポジティブな面はかわいい女性と遊べることでネガティブな面は貧窮する人々が増えることと分けて考えるべきだ。風俗を利用していない人から見ればネガティブな面しか見ないのだろうけど岡村さんの場合にはそうではない側面も見えている。このように自分に直接関係ない事柄にたいして人は特に単純化して見てしまいがちである。結婚はおめでたい、失恋は悲しい、失業は悲劇である等々。しかし自分の生活に照らしてみるとそう単純にとらえることができないことのほうが多いはずだ。その複雑さを無視してこれはこうだ、彼はこう言ったからこうだと考えているに違いないと批判する人のほうが他者にたいする想像力に欠けている。

岡村さんの言っていることは単なる未来予測であり未来がどうなるかという予測は差別ではない。かわいい子が風俗にはいってくるのが嬉しいからといって女性の貧困を望んでいるわけではない。ゆえにこれは差別ではない。ラジオで話したことは不注意だったというだけだ。

 

 

 

それよりもこの騒動で奇妙なのは岡村さんのような風俗利用者が下劣で差別する側だと思われている点である。風俗嬢に同情する意見ばかりだが一回性交渉するのに何万円も支払う男性のほうが男性性に支配されている弱者という見方もできる。完全に自由ではないにしろ風俗で働くか否かを選択できる女性より生まれた時から男性性を持ち、パートナーがいなければ風俗に何万円も支払う性を持つ男性のほうがよほど弱い存在と考えられてもおかしくない。以上のようなことを言うと論理のすり替えだというふうに言われがちだが量的差別とはつまり誰がかわいそうかというターゲットを設定する繰り返しでしかない。その点で量的差別とは差別を差別するという点で差別の再生産のようなことになりがちである。風俗嬢は差別から保護すべき対象だから逆説的に風俗利用男性は差別している側だと思われ差別されたりと二項対立から抜け出せていない。そうやって立場が違う人を集めることによって動員し、利権が生まれる。あるいは対立を煽り女性は差別されていると大風呂敷を広げて正義めいたことを言って人を集めると承認欲求を刺激され単に気持ちがいい。敵を設定することによって友を集める。友敵理論そのままである。

 

エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で近代社会において個人がバラバラになると自由を得る一方で孤独になると書いた。孤独になると恐怖心や疎外感を感じ、大きく権威的な物に簡単になびくようになり、手に入れた自由から逃走するようになると続けている。その過程でサディズム的な支配欲により繋がりを再構築しようとする人がいる一方でマゾヒズム的思考によって権威に服従して恐怖や孤独を克服しようとする人が出てくると書いている。個人が自由になったことでむしろ自由を自ずから手放す。自由とはそれほど危ういものであり個々人が達成するには相応の胆力が必要になる。

近代における差別とはつまり自由から逃走した人々によるサディズムであり、ラディフェミがやっているような傷の舐めあいに似た被差別的連帯とはマゾヒズムのいい例である。

サディズムにおいて誰かを差別することも自由の意味を忘れた逃走者によるそれであり、敵=権威を見つけて被差別感情に浸ることもマゾヒズムのそれである。

量的差別とは定量的なものではなくどちらがよりヒステリックなマゾヒズムに見えるかという問題でしかなくそれは差別問題の本質ではない。

本当に考えるべきは質的差別であり自由や基本的人権自然権生存権、人種、男女平等など理念に照らした時に浮かび上がってくる差別こそを注視すべきである。それ以外は些末とは言わないがそれを喧々諤々と主張している人々の動機が何かを一度考えたほうがいい。

誰が敵かと言うことは政治的にはものすごく有効な手段だが倫理的には完全に不毛な行いである。