メロンダウト

メロンについて考えるよ

社会から降りる方法はないけど自由の意味を考えることならできる

シロクマさんが社会から降りることについて書いていてすこし思うところがあるので書いていきます。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

社会から降りるっていうと古くは学生運動から派生した新左翼共産主義同盟、高度経済成長後期のヒッピーやフリーター、最近だとさとり世代などが挙げられると思うけれど

彼らの誰もが結局は社会から降りることができなかった。どんな主張も資本主義的な設定に組み込まれコンテンツと化してしまうことで資本主義に包摂されてしまう。それ結局競争だよね、と。あの人たちは反資本主義で競争していたよねとどのみち競争原理にさらされてしまう。

社会から降りるというのはことさら難しい。昔、テレビで完全に社会から降りて無人島に一人で暮らしている老人を特集していたが、その人も家族から物資を送ってもらっていた。無人島は極端な例だがむしろ無人島に行ったりして身体的に社会から降りることのほうが容易ではないだろうか。

多くの人が望むように精神的なレベルで社会から降りることは無人島で暮らす以上に難しい。

 

人類は地球上で最も繁栄しているが全生物の中でも生まれた時には最も無力な生物として生まれてくる。動物は本能的な機能が備わっており一部の例外を除いて鳥は生まれながらに飛び方を知っている。魚は泳ぎ方を知っている。

人間の赤ん坊は何も知らない。何もできない。ただ泣き叫んで助けを求めるのみだ。

何も知らないゆえにすべてが外部によって決定され教育や文化が違えば全く別の動物になっていく。つまり生まれた時から適応を運命づけられている動物が人間という生き物だと言える。

 

僕達は大人になって時にそれを否定しようとする。人間には自由があり社会と個人は関係しているが同時に切り離されているべきだと。最近だと多様性などがそれにあたる言葉かと思う。しかし、そう考えるのであれば生まれた時のことをどうやって否定しうるのだろうかという問いも同時にたてなければいけない。個人は個人であるべきだと僕達は言うけれどそれはそういう環境にさらされた結果生まれた適応に過ぎないとも言える。過去は過去、今は今だというふうに切断処理することもできなくはないけれどそれは同時に未来における適応を捨てるということにはならないだろうか。どうあれ人間は外部からの影響によって行動も思考も形作り、自由でさえも自由が大事だという後天的な教育によって獲得したものである。その自由をもってして適応を捨てるというのは論理的に矛盾する。自由が大事だと教えられた瞬間に自由は適応に成り下がるのだ。

 

自由とはことさら難しい。前記事でも書いたフロムの『自由からの逃走』によれば人間は自由と反自由を行き来する動物であると書かれている。自由に逃走し、自由からも逃走する。自由こそが近代人の心理的な監獄だと。

僕達は自由を欲する。時に社会から降りたいとすら思うほどに。しかしフロムによれば自由を得た人間は同時に孤独をも連れて行かなければならなくなると書いている。その孤独に耐えかねると自ら選んだ自由を手放し逃走するようになる。この心の動きはベタな話からもわかる。仕事をやめて無職になった当初は昼ビールうめえええなどと感じるけれど一か月もすればどうしようもない孤独感に襲われる。海外に自分探しに行って自由を得たような気分になるが夜に星を見上げたらむなしくなって何してんだろと思ったりする。みんな似たような経験があるはずだ。つまりてきとうにはじめたような自由には賞味期限がある。自由が欲しくなったりやっぱり自由なんてろくなもんじゃないと思ったりそうやって迷うのが普通だ。

それでも僕達は自由が大事だと思うし実際、自由は大事だ。しかしもっと注視すべきは自由の意味のほうである。

フロムによれば自由の意味は社会構造と連動している。社会構造がその社会からの自由の意味を決定する。たとえば日本は男尊女卑的な社会構造がある(もちろんこの議論は別にあるが仮に)とすれば日本における自由の意味はジェンダー問題となる。あるいはアメリカでは人種からの自由がある。どの社会に所属するかでその人が言う自由の意味は変わってくる。日本社会から降りたいという意味であれば広義には資本主義から降りること、狭義にはわけのわからない企業風土や競争から降りたいとなる。どのフェーズでとらえるかでも自由の意味は変わってくる。その意味で一口に自由と言っても関係している社会構造、そしてフェーズがわからないとなんとも言いようがない。つまり自由とは普遍的な価値観でもあると同時に可変的に考えなければならないものだと言える。

ここで問題となるのは自由が先にあって社会構造が先にあるかという問題だ。鶏が先か卵が先か。社会構造が自由の意味を決定するのか、自由が社会構造を決定するのか。この問題についてフロムは「巡っている」と答えた。どちらもどちらに関係し影響を与え続けることで循環していると。

上述したように僕達は無力な状態で生まれてくる。その戦慄からは逃れようがない。社会構造からつくられた教育およびその環境への適応によって自由とは何かを僕達は考えざるを得ない。そしてその自由を社会構造に還流していくことで巡るのだ。つまり社会から降りたいと言う人がいることは自由の意味を再設定する機能として社会全体において必要なことである。それでも教育された価値観からは逃れようがない。僕達は自由が本当のところなんなのかを知らない。なぜなら生まれた時から人間は適応するしかない動物だからだ。社会からは逃れようがない。しかし僕はそれでいいと思っている。社会でうまくやって生きているような人だけが必要なのではない。それは単に順応に過ぎない。順応だけが適応ではない。社会に反応することもまた適応なのだから。