メロンダウト

メロンについて考えるよ

死ぬことができない社会

「死んでください」

いつかそう言うしかなくなると思っている。具体的な出口が見えない。中国のように感染者を追跡できるシステムを実装するかワクチンを開発するか集団免疫を獲得するかいくつかの出口は語られているけれど

今この瞬間、5月末で緊急事態宣言が解除される具体的な方策は何もない。先日、5月4日の首相会見でも精神論に終始していたがもうどうにもしようがないのだろう。地方での緊急事態宣言解除に言及していたが、仮に解除したとしても都市部での移動が自由となっていることから地方でも外出する時には感染のリスクがつきまとうことになる。その恐怖がある限り解除したとしても経済的な効果に関しては疑問が残る。どうあれ暫定的に経済を再開したとしても飲食店やイベント関連がコロナ以前に戻ることは上述した出口のどれかが完成するまでは不可能だ。

中国は封鎖を解除しているが中国の場合にはロックダウンして感染者を少なくすること+その感染者を位置情報によりトレースできてはじめて封鎖を解除できた。日本はロックダウンもトレースもできないので仮に8割削減して感染者が減り始めても根絶にいたるまでのトレースができないのでまた増え始めることは自明である。なので長期戦を想定し、どこで諦めるのかを考えるべきだが現状、そのような「消極的」な政策は打てないでいる。

しかしこの状態のまま半年、一年と続けば対面を必要とするほとんどのサービス業および関連会社は経営がたちゆかなくなる。そうなればいつか人が死ぬことを覚悟して経済を再開するしかなくなるだろう。

 

その時に問題となるのが哲学的な意味における「神の不在」「脱神話化」である。近代社会は死を遠ざけてきた。「死の公的不在、私的現存」と言われるが神によって人間の死を規定することは近代において許されていない。死は常に私的領域において処理され公的な意味づけによって人の死の在り方を規定することは倫理にもとるとされている。政教分離を考えればわかりやすい。国は国民の生命を守る義務を負う一方、時に宗教は「人はかくして死ぬべき」と言う。その点で国家と宗教はその在り方が矛盾する。だから国家と宗教は切り離されていなければいけない。ある宗教の命令によって人はかくして死ぬべきと言うことは近代国家の基本概念である生存権にもとるからだ。

しかしそうして国家が死を遠ざけることは正しく見える一方で他方では問題を生む。それが今起きているような緊急事態において死を語ることができないことだ。すでにもう誰を生かし誰を殺すのかという段階まできている。どこに予算をあてリソースをふりわけるのか考えなければいけない。しかし国家は死を語れないので現状維持しかできなくなっている。死を語る必要があるのに死を語ることができない。

これがコロナによって露呈した近代の弱点だと言えるだろう。

 

以前は宗教戦争などに代表されるように国家が死を語っていた。

ヴィンランド・サガという漫画で戦士は戦場で誇り高く死ぬことでヴァルハラ(天国)に行けると書かれている。誇り高き死がそのままモチベーションとなり戦場で戦うように導かれている。国家が宗教によって死をも厭わない人を動員することで国益を得ていた。また、誰を生かし誰を殺すことが国家にとって良いのかを直接的に行っていたのがナチスだった。

いずれも神による決定論だがそれを近代哲学は否定したのだ。結果として戦争は少なくなったが同時に神が不在となった。神が不在となったことで神による決定=神のお告げもなくなり、しかし同時に人々に語りかける神の声もなくなることになった。

そうして集団を規定するものをはがしていき個人と自由が尊重されるようになった。そのことを決して否定はしないが今のような事態になった時にロックダウンや位置情報を追跡できる法もない、そして集団に語りかける神もいないとなると事実上の手詰まりに見えてしまうのだ。