メロンダウト

メロンについて考えるよ

パチンコについて

依存症になってコロナ禍中でもパチンコに行く人がいる。よくわかる。僕も一時期パチンコ依存症というかパチンコで小銭を稼いでいたことがあるからだ。あの場所に縛られる感覚はとてもよくわかる。

僕はまだお金が減らない打ち方でうてていたので実際に何か問題が発生することはなかった。けれど周りでは仕事行くふりして毎日パチンコにきて家に入れるお金がなくなって仕事をしていないのがバレて離婚したという話も聞いた。ガンの治療中にパチンコにきている老人もいた。軍資金が尽きたのかキレて台を殴り警報音を響かせ店員に連れていかれる人もいた。静かにうっていたと思ったら突然台に蹴りを入れて走って逃げた人もいた。パチンコ屋の外のベンチでうずくまり泣いているおばあちゃんを見たこともある。

光と爆音で意志が毀損し気づいた時には大金を溶かす。怒り、台を蹴り、泣き、店員に詰め寄ったり傍から見れば愚かな人間に見えるかもしれないがそういう感覚はよくわかる。僕は幸運だっただけだ。

偶然ほど理不尽なものはない。恋人が偶然交通事故にあってなくなったり、偶然障害を持って生まれたり、そういうどうしようもない不幸にこそ人は怒り、呪う。交通事故にあいたくなければ道を歩かなければいいとか障害を持って生まれてくる子供は親が出生前に堕胎すればいいとか原理論的な話をすればキリがない。はじめからパチンコなんか打たなければいいとかいうけどじゃあギャンブルはお金が原因なんだから貨幣経済がなければいいとかなんとでも原因はつくれてしまう。

そんなことはどうでもいいのだが、パチンコがことさら悪者扱いされているのはそもそも「何が原因」なのだろうか。なぜギャンブルはダメで貨幣経済はいいのか、なぜパチンコはダメで競馬はいいのか、なぜパチンコはダメでアニメや映画はいいのか。いまいち判然としない。お金を賭けるという行為にたいしてスタックするというのであれば週に5日働いて年間で数百万円貯金しているのもお金にコミットしている点でパチンコと同相である。いっぽうではちゃんとしたサラリーマン、いっぽうではパチンカス。両者にそこまで違いがあるとは思えない。違うのは単に「境遇」である。パチンコに関しては全員が感覚的な話に終始していて峻別するつもりがないように見えてしまう。あれはダメだからダメだという言葉ほどつまらないものはない。

 

パチンコを嫌っている人が日本にはどうもたくさんいるみたいだ。政治も市井もとにかくパチンコは嫌いらしい。そしてその原因はなんだかよくわからない。 破産者がいるとか依存症が多いとか皆言う。ギャンブル依存症の定義も調べてみたがなんだかよくわからない。週に何時間以上パチンコしているから依存症だというわけのわからない勝手な調査しか出てこない。週に何時間以上なにかをしているのであればゲームも映画も研究もなにもかも依存症であるゆえに当該調査には何の意味もない。

 それで生活が破綻するのを依存症と呼ぶのであればFPSやフォートナイトで生活が破綻した人もたくさんいるだろう。外資系企業で昼夜問わず働いているのも依存症で大学院で研究ばかりして就職できなくなるポスドクも研究依存症と言えてしまう。なんだかよくわからない。

依存症という言葉はとても便利な言葉だ。こちら側から見て異常な行動をしている人のことはだいたい依存症だといえてしまう。 ミシェル・フーコーは「狂人は理性側の人間の眼差しによってのみ狂人として現前する」と書いたが依存症に関しても理性が常にこちら側にあり、あちら側の人間をすべて狂人と見なすようになっている。それは今でも変わっていない。社会全体の集団心理として依存症をつくっているのは我々つまり「こちら側の人間」である。こちら側があいつらはパチンカスだと眼差すことによって彼らを依存症として理性的に認定するのである。

パチンコを打つことの何が悪いのかとはつまりあいつらは理性的ではないと言っているに過ぎない。確かにパチンコを打つことは理性的ではない。だいたいみんな負けてお金がなくなる。しかし理性的ではないというのが論拠として成立するのであればゲームをするのもとても理性的だとは言えない。あるいは絵を描くのも音楽をつくるの小説を書くのも感情的な衝動をぶつけているものはすべて理性的とは言えずパチンコを打って台を殴っているのと違いはないと言えてしまう。歌詞に自らの感情をぶつけるのとパチンコで台を殴る行為とで違うのは単に「承認」である。

理性的な人間が感情的な物・人を見つけた時にその理性に適うものは理性的感情として社会に是認されそうではないものは唾棄される。

そうやって社会全体で何が良いか悪いか暗黙的に決定していき、これは悪い感情だとされたものは依存症だと認定される。その認定により当人は劣等感を抱き精神状態に支障をきたし、狂人として扱われその眼差しによってそう振る舞うように形づくられていく。

劣等感ほど人を頑なにするものはない。フロイト精神病理学においてヒステリーを起こす人は幼少期に受けた性的虐待が原因のことがあると書いた。ヒステリーを起こすのも理性的な行為とは言えずこの社会においては悪いことだろう。パチンコを打つことも社会的には悪いこととされている。パチンカスと言われたり性的虐待にあったりそういう被害体験に「慣れ切ってしまい」自己肯定感がさがりなおさら理性側から遠ざかることになる。そういう抜けられないサイクルのことを現在では依存症と呼んでいるがしかしそのサイクルをまわしているのは誰なのだろうか。それは加害する側だろう。つまりあいつらはクズだとかあいつらはコロナなのにパチンコ屋に並んでいるだとか言っている人達。そういった人達の眼差しによってパチンコ屋に行く本人も自らはクズであると自ら考えるようになる。クズのことをクズと思ってもいいが声に出してあいつらはクズだと発言するのはことさら重いことである。それに行政も加担しているのだからタチが悪い。

ライブができなくなった音楽関係者に補償金を出すという話もあるが文化という名目であればパチンコも文化のひとつだと僕なんかは思っている。

ギャンブルという側面が過大視されていてお金を賭けなければ誰もやらないという意見もあるけれどお金を賭けなくてもパチンコやパチスロは充分に面白い。エヴァ孫や約束のリール制御だったりハーレムエースのリーチ目に七色未来の中押し、デビルマン倶楽部やホースケ君なんか思い出してはたまに打ちたくなったりする。なによりお金を賭けていないYoutubeパチスロ動画も数十万再生されていたりする。ギャンブルだという側面しか知らないやったことがない人がギャンブル依存症だと思うのは当然だけどそうではない側面もあり、それは確かに文化的なものである。その点は音楽やアニメとも変わらない。

僕からすると今のパチンコにたいする報道や意見は香川でゲームをやったことのない議員達がゲーム依存症は問題だからゲームはダメだと言っているのと完全に同じにしか見えていない。

だからといってもろ手をあげてパチンコを許せ、パチンコは文化的なもので依存症は単におまえらが悪者だと言っているに過ぎない、だからパチンコは問題ないんだと言いたいわけではない。ハンドルを握り台をずっと見ているあの身体的な感覚、その虚無を忘れたわけではない。だから僕はパチンコ屋には行かない。

ただちゃんとした論をたてそのうえで文化的な側面を考慮しながら産業として残していくのは充分可能だと思っているだけだ。単にパチンコは悪、依存症はクズだというのはあまりにも乱暴である。