メロンダウト

メロンについて考えるよ

誹謗中傷を友敵理論、ポリティカルフィクションで考える

神崎さんの記事を読んで「実践」としては同意できるものの「政治性」という意味では疑念が残ったのでそれを書いていきます。補足みたいな感じですね。

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人間観の違いなのだろうけど、僕は誹謗中傷している人の気持ちがわからないでもないんですよね。ネットの向こう側で誰かが右往左往していることは「面白い」ことなのでしょう。実際に誹謗中傷を書くことはない(気を付けている)ものの躊躇ひとつ壊れてしまえば誰かに罵声を浴びせることはそれほど理解できない行動ではない。

 

とりわけ石川さんに関して言えば言動の不一致や論理的整合性の欠如が各所で指摘されており、それを指摘すれば石川さんから反論が返ってくるという具合に「誹謗中傷すれば踊ってくれる」と「期待」している人が少なからずいるのだと思う。あるいはそれが誹謗中傷でなく批判や意見だったとしても誹謗中傷だと受け止めてしまうナイーブさを持っている点で石川さんのことを面白がっている人は相当多いように見受けられる。

 

僕の狭い観測範囲でも石川さんはたびたびやり玉に挙げられているし、引用ツイートでツッコミを入れることによって石川さんもまた「政治的に消費」される事態になっている。

 

具体的なフェミニズムの問題は様々あれどもはやフェミニズムの問題ではなく彼女の言動のピーキーさを面白がっている人が多数いる、と見たほうが正確な気がしている。その奇異の目が石川さんにとって見れば誹謗中傷に見えていてもまったく不思議ではない。人の主観性を甘く見積もらないほうが良いように思う。人が誹謗中傷に見えると言った時、その人にとっては誹謗中傷に見えており、それが同時に「客観的に誹謗中傷ではない」は成立しうるのだ。その捻じれを前提にしなければすれちがうままになってしまうであろう。

 

単に誹謗中傷と言っても誹謗中傷はそれほど簡単に定義できるものではないし、面白さという人間の快楽に根差しているのでシステマチックな「善政」で突破できる話ではないように思う。神崎さんの記事では「正の循環」や「マーケティング理論による説得」を試みているけれど、誹謗中傷は損得ではなく快楽に近いため、道徳心や損得に訴えてもほとんど意味がないのではないだろうか。記事に出てくる「穏やかな言葉を使ったほうが広範な人に読んでもらえてフォロワーも増える」というのはその通りなのだけど、そもそもフォロワーを集めたい人は誹謗中傷などやらないわけで。実践としては賛同できるけれど快楽で誹謗中傷している層には永遠に届かないどころか、批判的意見が消えることで、誹謗中傷する側とされる側だけが残りますますクラスタ化していくことになりはしないだろうか。

 

「加害クラスタ」「被害クラスタ」「正の循環クラスタ」という三極に分離された時、正の循環クラスタでツイートをまわし穏やかになった人は単にそうしたものから離れていくだけの人のほうが多いであろう。それにより加害クラスタと被害クラスタだけが残り、より苛烈な誹謗中傷がおこなわれても不思議ではない。というよりもすでにそうなっているため、エコーチェンバーなどが問題になっているのではないだろうか。

 

つまり誹謗中傷は実践として考えることも大事だけれどもっと広範な政治性によりとらえかえしたほうが良い気がしているのだ。

前提から言えば近代リベラル社会は「なんでもありな空間」だと言える。自由という一字をとって見ても、仮に誹謗中傷したとて訴えられ賠償金などを支払えば何を言っても良い。もちろんそれが褒められたことでは断じてないが、「条件として」誹謗中傷は可能なのである。刑法に触れない限り自由で、一部の自由には相応の処罰が伴うなんでもあり社会の「なんでもあり性」が最も端的に表れているのがSNSの誹謗中傷なのだろう。

 

以上のような自由、あるいは近代の条件について書かれているのがカール・シュミットの『政治的なるものの概念』であった。シュミットはナチスドイツに傾倒した悪しき政治哲学者と言われたりするが、シュミットの書いた近代の条件には無視できない側面が含まれている。

ニーチェが言うところの『神は死んだ』からもわかる通り、近代社会において絶体善や宗教的規範などは存在できなくなった。したがって絶対善による政治体制や神の威を用いた啓蒙なども存在できない。それでも政治をやろうとするのであれば『善を決断』し、この善に従う者を友として受け入れるという体制にならざるを得ない。その決断こそが近代政治の条件である。」というようなことを書いている。

 

友と敵を峻別し、友との結束を強くすることで権力が生まれ、その権力により統治が可能になるという点で今の価値観からすれば排外主義や差別主義ともとらえられかねないけれど近代の条件を直視した時に見えてくるのが友敵理論という「政治原理」であった。

シュミットが書いた近代の条件及び政治原理は年々説得力を増しているように思う。

僕達はユニバーサルな価値観を持てないかわりにそれぞれが友と敵を腑分けし、政治を行っている。誹謗中傷の話に戻れば、近代社会における政治性とは友敵理論により捻出するものであるため、有用な敵を見つけ批判することでこちら側の結束、つまりフォロワーが増えるというのが今の社会なのである。

フェミニズムを敵として見積もり、どのような戦略が良いのかという算段をたてたりするのも同様である。あるいはミソジニーを相手取るフェミニズムも友敵理論を駆使していると言える。また、経済的には利害、道徳的には善悪、芸術や美学における美醜なども同様に「政治的なる」ものであり、友敵理論という闘争の論理からは逃れようがない。

闘争しないという平和主義もまた明らかに敵を念頭に置いたものであり政治的なものだと言える。いずれにせよ近代自由社会において敵がいない政治性は条件的に存在することができない。なぜなら敵がいない真にユニバーサルな価値基準とはつまり神のことでしかないからだ。それ以外の価値基準はすべて恣意的に「決断」される。

それゆえ僕達の政治性、あるいは議論は原理的に闘争なのである。

 

この近代政治の条件を前提に据えた時、誹謗中傷の問題もすこし違って見えてきはしないだろうか。近代政治の条件が友敵であるという原理から考えるに「弱い敵ほど政治的に有用なものはない」のである。石川さんのように論理的整合性のとれない言動をし、誰でも叩ける人ほど強くたたかれることになる。あるいはもっと直截的に言えば炎上そのものが弱った敵をぶったたいて友の結束を強めるチャンスだとも言える。

ようするに近代政治の条件こそが炎上や誹謗中傷の起源であり、それがなくなることはないであろう。もう一度神を復権でもさせない限りコモンセンスやユニバーサルな利他主義、公徳心が生まれることもない。あるいは神を復活させたとしても別の問題が出てくるわけであるが、いずれにせよこの「近代の条件」を見つめ返した時、神を奪われた僕たちが囚われている「政治性」「誹謗中傷性」をすくなくとも自覚することができるはずだ。

 

誹謗中傷がダメだというのは当たり前なのである。しかし僕たちは誹謗中傷(に類するもの)でしか政治を行うことができない。

なればこそ誹謗中傷を言われた時にも「彼、彼女は友敵理論に囚われているんだな」とメタに眺めることができ、すこし楽になれたりはしないだろうか。

逆に誹謗中傷(に類するかもしれない発言)をしたくなった時には自らが「政治性に囚われてないか」と疑うことができる。あるいはストリートファイターリュウのように「こんなやつを敵にしてもつまらないな」「俺は俺より強いやつに会いにいく」と思えたりもする。

僕たちはこの社会の条件からは逃れようがない。それに囚われてしまうこともあるであろうそれでもなお心は自由を創造することができる。

そんなPF(ポリティカル・フィクション)を妄想してるのである。

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