メロンダウト

メロンについて考えるよ

文章を読むことについて

「きちんと文章を読む」と言葉にするのは簡単だけど実践するとなると相当難しいと思う。www.tyoshiki.com

 

 

書評の書き方が話題でtyoshikiさんの記事を読んだのだけどきちんと文章を読むこと、書くことが自分にできているかと言えば嘘になる。

自分自身自分が読みたいようにしか読んでいない側面は否定できないし自分が書きたいようにしか書いていない自覚もある。

 

文章を読むことに関して言えば文脈や言外を同時に補完しながら読み進めなければ理解できないものも溢れていて当該文章単体で成立するものはほとんどなかったりするのではなかろうか。誰かの言葉の受け売りであったり引用を言外に構成しながら言葉だけはオリジナルに見せているものがほとんどだったりするわけで。それが悪いこととは言わないし個々人が真の意味でオリジナルに考えたものは厳密には存在しえない。書く場合でもそうだし読むという行為も類似する文章を念頭に置きながら読むことを避けられない。

それが党派性に縛られる、自分が読みたいように読む点で読解力がないと言われても仕方ないものの、読解力という言い方にはどこかしこりが残るのですよね。「ピュアな読解」「ゼロベースで文章を読む」という行為はほとんど不可能なのではないかと。

 

国語の読解問題などの構成された文章を読むことと、一般的な文章を読む行為は似ているようで全然違っていて問題として提示されている文章は接続詞だけを注視してみればそこまで読み違えることはない。ある程度の論理構成がされた文章を読むことと書籍を読むことは行為としてまったく違うといった感触がある。あるいはブログやnoteのような「記事」に関してもそれを相対化して読まなければいけない環境になりつつある。ゼロベースで文章を読んだ瞬間に手練手管な文章に捕らわれてしまう危険性があるからだ。

 

こう考えると僕たちの読書体験は編集に支えられていたのだと考えることができる。編集による事前のスクリーニングによって読者はそれを安心して読むことができた。あるいは新聞などの大手メディアでもファクトチェックがなされているけれど、ネット上ではその限りではない。このブログのようにネットに溢れる文章を読むことは時に洗脳や党派性に捕らわれかねない危険な行為だったりする。どれがファクトで誰が何をしようとしているのかを厳密には知りようがないからだ。ネット上にはdappiのようなプロパガンダを目的としたアカウントが混じっているため、ピュアな読解をした瞬間、自民党支持へと誘導されてしまうこともある。

したがって党派的に文章を読むという行為は自己防衛とも言える。党派性により相対化することでセキュリティーを張らなければ文章を読むという行為ひとつさえ危険だったりするのだ。文章を相対化するだけの知識を持つ人でなければ容易に先導されてしまうしそれは今の政治状況とほとんど地続きだとも言える。

 

いずれにせよ読解力を身につけるというのは生半可なものではなく、情報量が莫大になり物事が複雑になった世界で党派性という軸をなしにして「ピュアな読解」というのを維持するには相当の胆力が必要とされる。

なので自分が文章をちゃんと読んでいるかと言えば「読んでいるけど本当には読んでいない」という「結界的な読解」「懐疑的な態度」にならざるを得ない。それを批判されればぐうの音も出ないわけだが、しかしそうでもしなければ明後日の方向へと勘違いさせる罠がいたるところにあるのがインターネットでもある。

 

結果として

知識も教養もない空っぽ状態で、薄っぺらいブログを毎日更新してアウトプットしてるつもりになってるクソザコナメクジ

である私のようなブロガーが爆誕するわけである。