メロンダウト

メロンについて考えるよ

誹謗中傷のイメージ論について

誹謗中傷している人は他者を貶めているばかりでなく自分自身を縛り上げ苦しめているといった記事を読んだ。

海燕さんの記事

インターネットが人生を腐らせる。 - Something Orange

単純なことで、人は一切何のアクションも起こさないかぎり無傷でいられるが、なにか行動を起こした途端、かならず失敗したり間違えたりするものだからだ。

 何もアクションしないがゆえに完璧な状況に慣れた人は、その「完璧さからの失墜」に耐えられない。だから、何も行動しなくなる。

 かれはその限りにおいて「失敗しない人生」を歩むことができるだろう。しかし、そうやってたどりつくのは、一生、何ら有効なアクションを起こせない無為な人生である。

 

 

ワナビーとかそういったものを想起させる話でこういう心のメカニズムがあるのは確かだと思うけど、誹謗中傷に限って言えばこの手の「ネット廃人的イメージ」って、はっきり言うと嘘だと思うよ。ネットに浸かって何もしない人はいるだろうけれど誹謗中傷している人が社会適合的ではない(何もしていない)という言論はかなり疑わしいと思う。

古谷経衡さんがネトウヨの研究で、韓国人にたいする差別発言やネットで誹謗中傷を行っているのは中小企業の管理職に多いことを明らかにしていた。具体的に言えばいわゆる地方の建設会社で暇している妙齢のおじさんおばさんが会社のパソコンから爆サイやガルちゃんに暇つぶしで投稿しているケースが多いみたいである。似たようなもので言えばスマイリーキクチさんが2ちゃんねるで誹謗中傷された件でもIPが開示され逮捕されたのは銀行員など普通の会社員だった。

論理的に考えればなにもしないワナビー、つまりニートやひきこもりがその鬱憤晴らしに世間への憎悪をネットに書きなぐり有名人にたいして誹謗中傷をしていると考えがちで、自分もそのように考えていた時があるが、それは単に「理解がしやすいストーリー」というだけで実相とはかなりの乖離がある。そして何故このようなパターナルな思考になるかというと「夢を持って頑張っていたり社会で真っ当に生きている人間が誹謗中傷するわけがない」という観念が強烈すぎるためなのであろう。誹謗中傷する人間を外部化することで社会は平和だと錯覚できるものの、普通に夢を持って頑張っている人がある日その人生訓を鉞として誹謗中傷を働くぐらいに人間の精神は危うく、またそれをアウトプットできてしまうインターネットがそもそもとして危ういものなのではないだろうか。

実際、タイムリーなところで言えばビックモーターで詐欺行為を働いていた人も家族がいたり対外的には良い人だったりするのだろう。はてなブックマークもけっこうきつい批判や誹謗中傷がくる時があるけれどああいうのを書き込んでいる人だってひきこもりというわけでもないでしょう。

 

ようするにハラスメント問題と同じで、小さな成功体験を積んだ人間がその経験にもとづく全能感ゆえに他者にたいし自身の正義を語ったり人生訓を説いて回っているほうが多いのだと思う。ハラスメント問題もネット上では弱者男性をターゲットにした言論が展開されているが実際に加害者となっているのは妻もあり子もあり地位もあるゆえに妙齢にして全能感を持っている人であったりするわけで、ネット上の話と現実の問題との間にはかなりの食い違いがある。それは誹謗中傷をとってみても変わることはない。すくなくとも古谷さんの調査でネトウヨは「地位のあるおじさん」に多いというのがわかっている。また、最近、りゅうちぇるさんが自死された件で離婚した当時の彼にたいし「家族観」を説いて回っていたのも我慢して子供を育てた人がその苦労ゆえに彼にたいし自身の家族観もとい正義感を押し付けていたのがほとんどであろう。

なにもしない人というのはなにもしないゆえに人に説いてまわるだけの「正義」を持っていない。厄介なのはなにかをして実際に部下や後輩にその再現性を説いて回っている職務に就いている人間の「井の中のカワズ(蛙)感」のほうなのだ。

 

社会に適合している人物であったり、あるいは自己実現を目指し夢を持って頑張っている大谷翔平藤井聡太がインターネットで誹謗中傷するわけがないと考えるのは、いささかピュアすぎやしないであろうか。大谷翔平は超人すぎてイメージが湧きづらいのは確かだけど一般的に言えば人生が充実してるか否か、なにかをしているか否か、と誹謗中傷するかどうかはあまり関係がない。それが実情であるように思う。人生が充実しててハイになって書き込む人もいるだろうし、絶望して書き込む人もいる。あるいはネットリテラシーがないというケースもある。いうなれば多様であるのだ。そしてそういう書き込む側の動機は外から見てもわからない。特にツイッターのようなメディアでは。なのでゆえん属性で判断するような犯人捜しにあまり意味があるとは思わないのですよね。むしろそういう属性で振り分ける言論が目くらまし的に機能してしまうことのほうが多いように思う。

言うべきことはひとつで誰であれ自身の正義を語りたくなることはあり、それが誹謗中傷になることはあるということ。ただそれだけのように思う。