メロンダウト

メロンについて考えるよ

コスパ主義に抗う?

こんにちは。コロナ(2回目)に罹ってました。一応ワクチンは4回打ってるんですけどね。ほんとよくできたウィルスです。発熱後2週間ずっと体がだるかったのですがようやくすこし落ち着いてきました。

 

それはそうと藤井聡さん主宰の『表現者クライテリオン』7月号が面白かった。

最近いろんなところで目にする「コスパ」「タイパ」について批判的検討がなされていました。

一部ネットでも読めるのでそちらを貼っておきます。

the-criterion.jp

 

効率性ばかりを強く求めそこに目が行き過ぎてしまうと、物事を選択しているようであっても、実際には外部から与えられるという状態(自己家畜化)に陥ってしまっていると捉えられることは少なくないだろう。卑近な例で言えば、コスパ良く効率的に栄養摂取するためにインスタント食品やレトルト食品を利用するのは、食事が操作的に行われているに過ぎず、その姿は家畜的である。

 

 

「自己家畜化」あるいは「飼いならされた人々」はすこし前によく議論になっていた記憶がある。どの記事か忘れたけどこのブログにも似たようなことを書いたような・・・

しかしもう私自身が随分と家畜化された生活を送っているためかあまりそういうことを書かなくなった。アマゾンで買い物し、ネットフリックスで映画を見て、ウーバーで食事を頼むという「現にここにある生活様式」と比べれば頭の中で構想する「自己家畜化しないで生きていきたいという理想」はあまりにも薄弱なのだ。

コスパやタイパを重視しないという考え方は少し前であればまだ現実の生活との整合性が取れていたように思う。しかし今の時代で実践しようとしたら少なからず無理が生じる。アマゾンで買い物しないというともう現実的ではない。ネトフリやSpotifyなどのサブスクを使わずに映画や音楽を楽しむことは、できなくはないが相当なストレスがかかることになる。とりわけコスパの象徴たるスマホを使わずに生活することはもう事実上不可能であろう。

とはいえ、そうした現実の生活がある一方でクライテリオンで書かれていたようなコスパやタイパとは逆の価値を忘れたわけではない。

映画の話で言えばレンタルビデオ屋に行き家族友人恋人と一緒にDVDを選ぶ楽しさであったり、ゲームで言えば今はネット対戦がメインだけどわざわざゲームセンターに行き100円支払ってゲームをするようなわずらわしい行為が素晴らしいものだったという程度の記憶はあるのだ。事前にコストをかけ時間をかけるからこそ物事を楽しむことができていたのだなと思うことはある。ネトフリで映画を見ているとすこしでも展開がだれると視聴をやめることがあるけどお金と時間を払い借りたレンタルDVDはたとえクソ映画であっても最後までちゃんと視聴したうえでつまらなかったと評価を下すことができていた。ネトフリは自分で感想を持つところまでいかず途中で見るのをやめたり、無料ゆえに集中して見ていないせいか結果的になんの感想も抱かないことがある。

「なんでも」「いつでも」「無料で(見放題で)」見れるゆえにパフォーマンスが悪い作品は見たくないという感覚が生まれる。それゆえに見る価値のあるもの、つまりはパフォーマンスの良い作品を見たいという欲求が生まれ、効率をあげるために倍速で視聴する人々が増えているのであろう。

 

しかしながら「見る価値のあるもの」と言っても見なければわからないのが映画である。そこで多くの人が見る前の判断指標として採用しているのがレコメンド機能、SNS、レビューサイトなのであろう。これらはすべて外部の指標であるが、選んでいる時その人は自らが選んでいると思っている。しかし実際にはアルゴリズムがそこにはあり、恣意性が加えられたシステムによって選ばされているに過ぎない。このような主従関係の意識が失われた状態のことをクライテリオンで書かれているところの「自己家畜化」と呼ぶのであろう。

ようするにコスパやタイパを重視する人はパフォーマンスを重視するがゆえに何を見たら良いかという判断をする時により確度の高い情報を求めSNSその他を駆使し映画を選びがちだが、まさにそのコスパ志向ゆえにより深くシステムに没入することで自ら家畜化されに行く。およそそのような理路なのであろう。つまりいまやコスパやタイパは無意識の内に行われているため、それにたいし批判することで「自分が何をやっているのか」を明らかにし意識の俎上に乗せる必要があるというのがクライテリオンで書かれているところなのであろう。

 

 

ただ、「コスパがもたらす自己家畜化に抗う」と言うといかにもな響きがあるがこの手の議論は対象を限定しないとかなりおかしなことになると思う。

映画を例に出したけれど、自動車だって厳密に言えば自己家畜化の例に漏れない。車を走らせることは誰かが敷いた道路の上を走っているだけと言えばそうである。自分の足で移動する自由さと比べれば車での移動は「家畜のそれ」ではあるだろう。または労働だってしばしば社畜と呼ばれるように誰かがつくったシステムに乗っかって働いているに過ぎないといえばそうである。つまり家畜化それ自体を問題にすると問題とすべきものが広がりすぎるため、あまり意味のある話とは思えない。

自己家畜化と言われる現象の問題は「家畜化されるべきでないもの、またはパフォーマンスで測るべきでないものまで家畜化されていっていること」にある。

移動や仕事はパフォーマンスを測り成果を上げるべきものであるが映画などの文化的領域にたいしパフォーマンスという尺度を使うことはうまくない。少なくともコスパやタイパで映画を測ることはそれを楽しむという本来の目的から逸脱していくことになる。

 

つまるところ何を家畜化して良いのか、何をしてはいけないのかを峻別すべきなのだが、しかしていまや恋愛などにもコスパが入り込んできているし資本主義が極まると「パフォーマンスを上げるためにすべてを効率よく売るようになる」のは自明なことではあるように思う。こうなることはわかっていたと言えばわかっていたのだ。昔であれば「売ってはいけないもの」があった。たとえば性を売ってはいけない(貞操観念)などがあったけれど、そうした観念も解体されていったし物事に序列をつけることそのものがもう駄目なのである。

こうした傾向にたいし差別がなくなったと言えば聞こえは良い。しかし反差別と平等はセットであるため、差別がなくなった代わりにありとあらゆるものが平等に家畜化され、解体され、部位ごとに陳列されているだけとも言えるのだろう。それに抗うような保守的な考えを言うことは今でもできると思うが、これだけ生活のあらゆるところにコスパの流れが来ると家畜化されない領域を守るべきだと「言うは易し、行うは難し」であるように思う。

結論だけ見ればコスパ主義に抗う(社会の趨勢を変える)のは無理である。しかし同時に「誰かがそれに抗っていたこと、その言葉を残す」ことは非常に大切なことではあるように思う。でなければ恐らくコスパ主義は無意識の内に埋め込まれたまま進んでいくことになり、そうなれば自分が何をやっているかという自覚すら失われていくことになりなりかねないからである。