メロンダウト

メロンについて考えるよ

人と目が合わなくなったのには理由がある

日本人のコミュニケーション能力が低下しているらしい。

 

news.yahoo.co.jp

 コンビニエンスストアでもスーパーマーケットでも、多くの客がほとんど言葉を発しないまま買い物を終える。店員になにかを問われたとき相手の目を見て話すと、目を逸らされてしまうことが多い。ホテルの廊下で客同士があいさつし合うことなど、ほとんどない。エレベーターにあとから乗ってきた人たちは、後ろを一切振り向くことなく自分たちが先に降りる。新幹線などの車内では、客同士はできるだけ関わり合わないようにしており、棚に荷物を載せるのに苦労している人を、大抵の人は見て見ぬふりをしている。

 

 

 

ちょっと出羽守っぽい記事だけど人と目が合わなくなったのは確かにそうかもしれない。コンビニの店員さんとも目が合わなくなった。電車内でもみなスマホを見ていて向かいの席の人と目が合うようなことはほとんどない。現象として見れば確かに他人と目が合わなくなったとは思うけれど、なぜ目があわなくなったのかという動機の観点から考えると目を合わせることがどこか失礼な行為だと皆うっすら思っているからなんじゃないだろうか。そんな感覚がある。

見るという行為自体になにか意志が宿ってしまっているような雰囲気があるのだ。すこし前に「見るハラ」が話題になったこともあるが見る側も見られる側もそこに意志が生じてしまうような状態になっている。そのため、見られるという程度のことすらハラスメントとして受け取ってしまう。ようするに見る(見られる)ことがピーキーなものになった結果、他人と目を合わさなくなったしその果てに見ないことが礼儀のような状態になっていったのであろう。実際、目があっただけで「因縁」がつけられ事件に発展するようなことは少なくない(報道ベースでもあるし人づてに聞いたりもする)し、セキュリティーとして他人と目を合わせず、会話する際にも必要以上に踏み込まないのは自然な振る舞いではあるように思う。

 

 

いやでも、見る見られるが前提とされている通常のコミュニケーションの現場ではそこまでのものは感じず、むしろ目を合わせないほうが失礼だという場面さえある。

(全然関係ない個人的な話だけど、昔、面接の時に目を見て話しをするように教えられ面接官の目を見ることに集中していたら質問された内容が全然頭に入ってこなかったことがあった)

ともかく電車内やコンビニでは見ることは敬遠されがちだが、通常のコミュニケーションではそんなことはない。そうした二律的な状況にあるのが「見る」という行為の現在地なのであろう。

 

他人は見ない。会話相手は見る。

こう書くと当たり前の話ではあるが、裏を返すと恐ろしいのが、コンビニの店員さんと目を合わせないということは店員さんのことを会話する対象だと思っていないということになりはしないだろうかという点である。実際、コンビニで「ありがとう」を言う人は多くない。そこに人間がいても自動会計と変わらずに振る舞っているのはどこかディストピア感があるけれど、同時に、上述した理由によって「見ないし踏み込まない」ことがTPOとして正しいことだとも思っている。店員さんのことをサービスを提供する人(モノ)として扱いながらそう考えることが同時に道徳的なものであったりする。つまりセキュリティーとして店員さんと目を合わせないという道徳的振る舞いが結果的にコミュニケーション能力を低下させるどころかコミュニケーションそのものを断絶させることになり、それが上記記事で指摘されているように海外から見ると異様に見えたりするのであろう。文化の違いや出羽守と言えば話が終わってしまうけれど、日本の高度に発達したサービスの提供者と受益者の関係にディストピア感があるのは否めないように思う。

これがマジョリティーの問題としてひとつ考えられる。

しかしそれよりも厄介なのがマイノリティーのケースである。

「見ない」ということは自他の境界線をきっちり引くということであり、そう言えば聞こえは良いものの、しかしきっちりさや厳密さのようなものはそれを「完全に内面化してしまう人が出てきてしまう」ため危ないのだ。論理的に考えると他者にたいする不可侵が行き過ぎると一部の人は他人という枠組みを飛び越え「モブ」や「村人C」のような認識になっていきかねないように思う。

もちろん店員さんをモブだと認識している人は極めて少ないだろうけれど、たまに見る店員さんを人間扱いしていない人は「他人を見ないという社会状況」が生み出したモンスターなのではないか。

普通、人間は人間のことを人間として見るし、どんなに社会が変化しようともその分水嶺を超えたりはしない。しかし社会とまるごと同化した人は目を合わせないことを「絶対のルール」として認識する。果てにはコンビニの店員さんのことをモブとして扱うようになる。結果としてモブとしての振る舞いを逸脱した店員さんや目が合った他人にたいし因縁をつけるようになるのであろう。

つまり道徳的振る舞いが加速していけばその道徳を絶対のものとし「余白」や「弾力性」を認めないモンスターが出てくるようになるということだ。そこでは当然ながら皆がモンスターと会わないようにより神経質に目を合わせないよう努めるし、コンビニの店員さんもモンスターの逆鱗に触れないようより強くモブとして振る舞うようになってしまう。

「見るハラ」のような言論もまたモンスターであり、同様の構図を持って人々に注意を払うよう促す効果を持つ。

 

他人と目を合わせないであったり、エロイ目線で人を見ないであったり、店員さんにたいし余計に踏み込まないといったことはそれぞれを取り出してみればいかにも道徳的なものだ。しかしながらそれらを集積させると全体として見れば社会は委縮することになり、そしてそのようなピーキーさや神経質さは時にそのルールを絶対視するモンスターを生むことになり、さらにはその「道徳性を纏ったモンスター」と付き合っていかなければならなくなるのである。

 

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