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野党のジレンマ~コミュニケーションと議論の乖離~

野党の支持率が軒並み1桁という報道を見た。
野党の存在感が薄れて久しいけれど、なぜここまで野党が支持されないかは議論されるべきではないかと思っていて、その理由を愚考したので書いていきます。
 
報道されているように野党の支持率が低いため、自民党がどのような振る舞いをしても問題にならない。選挙ではどうせ勝つという目算があるためだろう。それは事実としてそうであり、菅総理の支持率がいくら低迷しようともきたる選挙で自民党が勝つのは目に見えている。
自民党の一党支配の現政局において、野党がだらしないからだと批判するのは簡単であるが、はたしてそうなのだろうか。もちろん野党の立ち回りがうまくなかったということはある。主なものとしては前原誠司氏が旧民主党を分裂し、希望の党小池百合子と合流しようとしたり様々な要素が絡んで今のような支持率の分布になっている。しかしながら民主党の振る舞いだけを論拠にここまでの低い支持率を説明するには無理がある。野党の立ち回りがそこまでまずいものだとは思えないのだ。立憲民主党などは穏当な主張をしており、国民感情と照らし合わせて見てももっと支持されても不思議ではない。
たいする自民党も積極的に支持されているわけでもなく、日本ではいまだに無党派層が支配的ななか、野党に支持が集まらないのは国民の考え方や生活態度に理由があるのではないだろうか。
 
結論から言えば批判すること自体がマイナスポイントになっている。そんなベタな感情の働きが作用しているように思う。
インターネットでは批判ばかりの世の中のように見えるけれどインターネットにいる人はインターネットに書く人しかいないので、ネットの印象をそのまま受け取ると重大な錯誤に陥る。また、政治を議論する人は政治を議論するような人しかいないので、ある程度の批判は想定済みだったりする。一方で現実はどうなっているかといえば、ネット上とは対照的に批判することはものすごく気を遣う行為になっていて、ハラスメントをはじめとし、他人にたいして諫言することはほとんど御法度であるとさえ言って良い。今の社会における理想的なコミュニケーション作法はようするに相手を批判しないことで、このようなコミュニケーション作法と政治的議論はかみ合わせが悪い。
以前はコミュニケーションがここまでピーキーなものではなかった。ある程度無作法なコミュニケーションをしても許されるだけの余白が社会にあったように思うが、ハラスメントの問題などが出てくると他人と喋る時は神経質にならざるを得なくなった。どんな発言が相手の傷口に触るかわからない。だからみんなコミュニケーションに気を回すようになり、それはそれで良いことでもあるけれど、そのようなコミュニケーションの現場では議論することができなくなってしまったのだ。コミュニケーションという枠組みの中において議論は存在できなくなっている。
 
他人には他人の自由があるという考えが分水嶺を超えて他人と議論することがもはや成立しなくなっている。ネット上のようにある種のコードを共有している人同士が議論することはあっても、お互いの了解がない限り議論することはゆえんクソリプとしてしか受け取られない。現実に議論をふっかけるような人はそれだけでメンドクサイ人であると思われ、議論の内容よりも先んじて回避される。そして、それが今の野党なのだろう。他人に侵犯しないという自由主義が他人と議論しなくてもかまわない空間をつくり、議論の場そのものを吹き飛ばしてしまう。
 
リベラリズムは自由な議論や自由な意見などを表玄関の表札として飾る一方、他人を家の中に招き入れないことを良しとしている。
わざわざ家の中に他人を招き入れ、茶を出し、顔をつきあわせ、喧々諤々と議論するような人はいまや相当な変人であり、そのような人のみで構成されるネット上の政治議論は「辺境」なのである。
多くの国民は自由な議論をしても良いと言いながら自由な議論の当事者にはなりたくない。ハラスメントする人がハラスメントされた側に「なぜあなたはハラスメントだと感じるのか、自由恋愛を侵害するなら相応の理由を説明せよ」というネットでよく見るフェミ談義のようなものをふっかけた時にどうなるかは説明するまでもないだろう。みなただ離れていく。
そのような状態にあって国民の多くが政治の良し悪しを判断する材料をなくし、一方で政治議論に夢中の「政治人」はネット上でタコツボ化していくことになり、分断が生まれた。「なぜここまでの愚策を行っている自民党を国民は支持しているのか」というネット上でよく見る文句を説明するのであれば、多くの国民は政策を判断したり、保守やリベラルというイデオロギーを持つまでの過程、つまり議論から完全に離れてしまっているからであろう。
 
このような状況で与党の政策を批判する野党にたいして国民が同調するかと言えばほとんど不可能に近い。野党の存在意義である批判をすればするほどに「議論そのものを回避する性向を持つ国民」はマイナス評価を与えていくからである。だからといって野党が与党が批判しないなど愚の骨頂で、野党が批判することによって守られているものも当然ながらある。しかしながら国民を守ろうと批判すればするほどに国民は離れていく。これが野党のジレンマとなり、支持率の低迷を招いている。
 
以上のような政治的な議論の現場にあって野党が支持を取り戻すには、メディアが変わるべき部分があると思う。「与党が○○の関連法案を国会に提出し、野党が反対しました」というような報道は国民が批判にマイナス評価を与えていなかった時代にあってこそ中立的であった。しかし批判することがマイナス評価になる現代にはそぐわない。かわりにたとえば「与党が憲法改正を主張しましたが、野党は現行憲法を守ろうと努めました」と報道するなど言い方ひとつでなんとかなる部分は多いにある。
もちろんメディアの報道の仕方などは一要素に過ぎず、国民が議論を回避する性向そのものをなんとかしない限り、野党とりわけ立憲民主党が政権を取ることは難しいと思う。それでもそろそろ「無党派層の非政治性」に目を向けなければいけない段階まで差し迫っているのではないだろうか。無党派層が政治に参加しないことを切断処理してはいけない。無党派層が政治に参加したくなるようなメディア空間、コミュニケーション空間をどうデザインするのか、抽象的に言えばそれが最も重要な課題であると思っている。