メロンダウト

メロンについて考えるよ

人間としての古谷経衡氏、記号論としてのインターネット

ゲンロンカフェに古谷経衡さんが登壇していたのでシラスにて拝見しました。

古谷経衡×辻田真佐憲×東浩紀「ネトウヨとJリベラルに抗って——夏のゲンロン大放談企画第3弾」 @aniotahosyu @reichsneet @hazuma #ゲンロン210907 ゲンロン完全中継チャンネル | シラス

古谷さんと言えばネトウヨだった過去を持ち、チャンネル桜など保守論壇の若手論客として活動していた印象が強い。僕も西部邁さんや中野剛志さんに先崎彰容さんなどの影響を受けているので、古谷さんのことも見かけていたのですが、正直言えばそれほど熱心には追っていなかった。「面白い人」だとは思っていたけれど・・・

いや、でも今回の放送を見てあそこまで熱い人だとは思わなかった。

ボルボ車の頑丈さを力説するくだりなんか最高だった。鬱とパニック障害の窮状、在日のキムさんを熱弁するシーンとそこから得た人生観、毒親との決別など

メディア上では保守論客としての振る舞いしか見えてこないけれど、長時間放送するシラスでは登壇者の人間性が見えてくる。そして、その「人間性の可視化」みたいなものがすべてなのではないかというのが視聴後に抱いた最大の感想であった。

 

結局、今のインターネットの最大の問題は「人間がいない(ように見えている)」ことなのだと思う。

もちろんみなそれぞれに生活があり、そこに人間はいるのだけれど、SNSを中心としたネット上ではそれがあまりにも表層化していて、人間が情報として処理されてしまっている。記号論的に消費されていくだけで、実存にまで踏み込んで人間を見せてくれるものは今やほとんどない。それを見せてくれるのがシラスなのだと思う。8時間とか放送してるのを片手間でも見ていれば人間が見えてくる。その人間史観のようなものがインターネット時代にあって逆説的にものすごく重要なものになってきている。

 

メディア上での議論は議論という枠組みの中に収められていて、その中でみなある程度のロールプレイを行っている。古谷さんであれば保守論客という役割を演じざるを得ないだろうし、リベラルであればリベラルの言葉を喋るbotとしての役割を暗に強制されてしまうのであろう。もちろんそれは番組構成という制約がある限りしょうがないことだし、パッケージを施さなければ商品として成り立たない側面がある。しかし、そうして商品として提供しようとすればするほど人間は表層化し、記号化してしまう。それを見た視聴者は誰々を保守、誰々をリベラルという記号として認識するけれど、はたしてそれが健全な議論なのだろうかと思うのだ。結局みんな同じ身体を持つ人間であり、その共通項を持ってして人間が人間として接続できる。こちら側が保守、あちら側がリベラルという枠組みで認識した場合、それは重大な錯誤に陥ってもまったく不思議ではない。そうならないためには人間の存在(実存)を無視できないレベルまで可視化するしかないのだと思う。それはリベラルが言う徳や倫理とはまったく違っていてその人を無視できないレベルにまで輪郭化することで視聴者への「戦慄」として刻まれ、保守やリベラルを超える人間としてはじめてこちら側に吸収されるのだ。

 

古谷さんは番組内で「自分は五年以内に死ぬかもしれない」と言った。もし古谷さんが亡くなるとすれば、シラスを見る前の僕であれば訃報としてしか認識できなかったかもしれないけれど、シラスで古谷さんの人生に触れた瞬間に無視できないものに変わった。人生を垣間見た瞬間にその人への認識は劇的に変わる。それはたぶん人間に本能的にプログラムされたものなのだと思う。家族が亡くなったら悲しいと思うのと同じように、他人と知人は違う存在であり、その存在の戦慄を拡張することでしか他者への想像力は開かれないのではないかと、そんなふうに思う。いわゆる構築主義、公共性を重視するリベラルのそれがよくわからないのは、人間に根差した本能に由来している部分がある。知人が死ぬのと他人が死ぬのは、どうしようもなく違うことなのだ。人はユニバーサルにものを考えるようにはできていない。もちろん誰にもその存在を知られずに亡くなる方もいて、そうした弱い人々にリーチしようとするリベラルの理念は崇高なものである。それも忘れてはならない。しかし人間はそうした理念によってのみものを感じるようにはできていない。

 

なればこそ他人を他人として切断しないような経験と、経験にもとづく認識が必要になってきて、それがゆえん公共性にも接続するのだと思う。古い言葉で言えばコモンセンスなどがそれにあたるけれど、そうした共同性の果てにリベラルが成立するのであって、一足飛びにハッシュタグで連帯できるほど人間は簡単な生き物ではない。インターネットに人間がいないというのはつまりそういうことで、パッケージ化され、商品化され、情報化されたものの内に人間は存在できなくなってしまう。そして、そういう世界に適応するSNSのキャラ戦争みたいなものも情報的にすべてが処理されていくし、だからこそそこに人間の存在が考慮されない「炎上」が起きたりもする。リベラルとキャンセルカルチャーがセットなのは、そこに人間の存在を認めていない心性と連動しているのが主たる理由なのであろう。リベラルは世界をどうデザインするのかという公共性に腐心していて、そこに人間がいるのをほとんど忘れている。僕が保守の側に親和的なのも保守の側はまだ人間の存在を忘れてはいないからだ。一部先鋭化したネトウヨが外国人にたいしてヘイトを行っていて、あれはまた逆の意味で問題ではあるのだが・・・

 

記号論として人間が消費されていくのは、「古谷さんが亡くなろうともどうでもいい世界」であり、それには明確に反対したい。人間はどうでもいいものはどうでもいいと感じるものであるけれどどうでもよくないものはちゃんとどうでもよくないと感じることができる。しかし今はどうでもいいものまでどうでもよくないものとして扱っており、どうでもいいものとどうでもよくないものの境界線があやふやになっていてどうでもいいものとどうでもよくないものを一緒くたに認識させようというふうに世界がデザインされている。人間には本来どうでもよくないことがあってその軸足によって世界を認識できるのだけど今は「軸足のない世界」になってきていて、そのような世界に適応しようとすればするほどロールプレイに巻き込まれていき、古谷さんが亡くなろうとも悲しいと感じない人間になっていく。

すべてをどうでもよくないものと考えはじめた瞬間にすべてをどうでもいいものと認識してしまう。それが人間であり、その意味で虚無主義ヒューマニズムは表裏一体なのだ。

西部邁『虚無の構造』がインターネットを語るうえでかなりの名著だった件 - メロンダウト

 

以上のような話はけっこう陳腐なインターネット観で、ずいぶん昔に言われていたことでもあるけれど、ああいうネット保守的な人間観は実のところけっこう正しかったりするのではと思うんですよね。今の状況を見ていると。

みなが記号論的に消費されることを良しとしているし、そのような世界でみながアイコンになろうとし、数の論理に埋もれインフルエンサーやアルファツイッタラーに憧れる世界はかなり歪んでいると思う。単純にそれは資本主義やブランディングの論理であって、それが公共性に繋がることはないのだろう。

人間と人間を架橋するには「時間」が必要であって、その時間を提供しているのがシラスなのではないだろうか。8時間放送するのは通常の番組構成からすれば狂気の沙汰だけれど、しかしその「時間」によって「軸足」を形成するしかないのが人間というやつで。

アイドルとファンの関係のように、あらかじめ決められた関係性のうちに押し込まれた世界で共有できるものは限定されている。人には不可侵領域があり、そこに侵入してはならないというアイドルとファンの関係は正しいことでもあるけれど、正しさに閉じられている限り、正しさの外に出ることはできない。他人と適切な距離を置くというリベラルの価値観は正しいことでもあるけれど、しかしそうした距離を取っている限り、人間が実存的にあることからはどんどん離れ、儀礼性へと埋没していくことになる。そうして人間は適応を余儀なくされ、再配置されていくことになる。そうならないためには古谷さんがそうしたように実存を提示し、保守やリベラルという価値観を二次的なものとして捉えるしかないのだと思う。人間はまず人間であるというものすごく当たり前のことがおざなりになっている。ネット上ではそのように見えてしまう。それはとても危険なことであろう。

 

ネトウヨの言うところの「日本人」だったり、リベラルの言うところの「被害者」は、無視できない側面も含むけれど、そうした属性で語れば語るほどに人間が記号として消費されていく世界になってしまう。

パッケージ化されない空間、人が目的化されない空間、儀礼性の外に出ることができる空間、人間を人間として認識できる空間

 

そういうものを提示するしかないのだと、シラスの運営者である東さんはよくわかっているのだと思う。

正直、誤解を恐れずに言えばシラスを見ている時に時間の無駄と感じることもある。外形的に見れば酔っ払いがくだを巻いているだけの動画と見る人がほとんどだと思う。しかし「管を巻く」ということの意味を僕達はほとんど忘れてしまったのではないだろうか。コストパフォーマンスや自己啓発的なものに侵食され、情報的に判断することに慣れ過ぎてしまった。ツイッターなどの高速コミュニケーションツールがその典型だけれど、その弊害が各所で噴出してきている。

つまるところ人間は人間でしかない。そんな当たり前の認識を古谷さんは思い出させてくれた。

ありがとうございますと、ただそれだけを書こうと思ったのだけれど、長々と書いてしまった。自らの主張に援用するのは悪い癖なのかもしれない。

おそらく読まれることはないと思いますが古谷さんありがとうございます。できることなら、亡くならないでいただきたいです。