メロンダウト

メロンについて考えるよ

立憲民主党とリベラルの政治的リアリティー

こんにちは。

参議院選挙の候補者をいろいろ調べていたところ、今の政局についてすこし思うところがあったので書いていきます。

 

曰く、ここ数年、自民党の一党支配になっている理由は左派の分裂にあると言われてきた。2017年の衆院選において旧民主党民進党)が分裂。一部は小池百合子氏率いる希望の党に合流した。そして合流を拒んだのが枝野幸男氏がたちあげた立憲民主党だった。

当時を振り返るに民進党の代表だった前原誠司氏が希望の党と合流したことが現在の政治の勢力図を大きく決定づけたように思われる。自民党に対するリベラルな民主党という図式は政治的な意味では思いの外大きいものだったのだろう。それはいまの立憲民主党の支持率を見るに明らかである。リベラルが分裂した結果、民主党の支持層も分裂し、政治の現場でもリベラルの存在感は失なわれることとなった。民進党が分裂したあの時、リベラルの歴史もまた断絶してしまったのだろう。

 

国政に限らず実際の政局にはどうしたって数が必要であり、その意味で「大きな政党」はそれだけで存在感を放つものだ。リベラルがなんなのか知らない人でさえも反自民・反共産と考える人は多い。かつての民主党はその人達の受け皿になっていた。民主党が政権を取った時でさえ、国民はリベラルを支持していたと言うよりも「大きい民主党、もといリベラルの大きさ」を支持していたと見たほうが正確ではないだろうか。保守やリベラルという枠組みはあくまでも「政治的位置づけ」に過ぎず、国民にとってはそれほど重要なものではない。そもそも僕達はそれほどイデオロギッシュな存在ではないからだ。実際に票を集めるのに重要なのはイデオロギーではなく、政治を引き受けてくれるだけの歴史があるか否かのほうなのであろう。歴史が国民にとっての政治的リアリティーなのは、実際の人間関係とそこまで変わるものではないはずだ。インターネットがこれだけ普及した現在でも街頭演説やどぶ板の政治活動が有効なのがそれを証明している。インターネットで一万以上リツイートされてもドブ板選挙に勝てない。政治的地盤や歴史と言い換えても良い。僕達はネット上の言説よりも目の前の人の笑顔、その存在のほうにより強く動機づけられるもので、政治もそれは同じであろう。

どこかの誰かがいかに有能であろうとも、長年の知己ほどには信用できない。政治も人間関係も同じなのだ。

その時間の積み重ね、「歴史」が途絶えたことはリベラルにとって痛恨だった。

 

 

しかし、結局のところ日本のリベラルは分裂した。リベラルから政治的リアリティー、つまり歴史は失われた。立憲民主党ですらいまや泡沫野党であり、国民の歴史の上にたつ政党とは言い難い。その為、立憲民主党は新しい歴史を築かなければいけなくなった。支持者を集めなければならない。しかし歴史がないとは「大きな歴史」に基づく軸足がないまま支持者を集めるということであるため、その手段はインスタントなものになってしまう。たとえば「インターネット左派」と合流し、ハッシュタグを打ったり、声の大きいマイノリティーを集めることで支持者を集めようとしている。しかしマイノリティーの論理に迎合すればするほど「大きな政党」としての存在感は失われていくことになる。そのため、かつて「反自民・反共産の受け皿」だったリベラル政党のその大きさは失われることとなった。今やリベラルは文字通りのリベラル集団でしかない。

リベラルはリベラルとして先鋭化し、政党ではなく政治思想集団へと先鋭化していってしまった。先鋭化した分だけツイッターでは支持されているように見えるが、実際の投票を見るにその先鋭化は逆に政党としての大きさ・度量を損なう結果になっている。

リベラルという政治性自体がそもそもマイノリティーなのである。

 

時に政治は政治に閉じられていくもので、たとえば歴史というと保守の言葉のように捉えられ、リベラルは「正しい事」を実行するという観念的な図式がある。しかしながらリベラルにだって歴史は必要である。どんなに正しい事を言う人であろうともその人に仕事を任せることができるかは積み重ねた時間の中に宿る。それは政治だって例外ではない。むしろ正しい事や重大な事だからこそ、それを任せるには膨大な時間に基づく信用を必要とするものではないだろうか。歴史が途絶するということはその時間とその時間に依拠した信用も途絶するということなのだろう。

政治的な言説を見通していると正しいことが支持され、正しくないことは排除されるという「投票」が繰り返されているように見える。ネットではそれこそ何か言えば即座に反応が返ってきて不祥事を起こした政治家は実際に辞任に追い込まれたりする。政治の現場ではその正しさがよりリアルに感ぜられ、正しさと政治を取り違えてしまうのかもしれない。しかしながら、もちろん正しい事を言えばそれが全てなわけではない。

ゆえん正しい事が勝つとは限らなかったりする。いや、正確には、正しい事が勝つためには時間が重要なのだ。そしてそれこそが政治的なリアリティーではないだろうか。したがって保守よりもリベラルのほうこそが保守的である必要がある。

自由や平等は正しいし、支持したい。同性婚、資本の再分配、表現の自由夫婦別姓など、政策としては支持したいものが個人的にも多い。しかし票を預けることはそれとは別の論理が働く。すなわち「正しい事を委託できるだけの信用があるか否か」である。

 

おそらく今度の選挙でも立憲民主党をはじめとする、「リベラル派」と呼ばれる政党は敗れることになる。しかしそれは歴史がない政党だというのが大きい理由である。ポジティブに言い換えれば、仮に立憲民主党が選挙で敗北してもリベラル政党としての姿勢さえ崩さなければ、たとえ今はマイノリティの為の政党であろうとも将来的には「大きなリベラル」をもう一度実現できるのではないだろうかと思う。ようするにリベラルの復興を保守的に期待しているのだ。それはイデオロギーが強すぎる共産党には決してできないことであろう。

立憲民主党はリベラルと保守を繋ぐその大きさ、国民のリアリティーを時間の中に見出してもらいたいと、個人的には思うのである。

 

 

 

PS:ところではてなブックマークがくたびれはて子さんと同じ理由で非表示になりました(笑)