メロンダウト

メロンについて考えるよ

なぜ僕達は人殺しの顔ができないのか~神の不在と道徳の恣意性及び加工アプリについて~

もう10年前なのか、この記事・・・

goldhead.hatenablog.com

 

自分が読んだのは3年程前なのでそんなに時間が経っている感じはしないけれど、関連する記事を黄金頭さん本人が書いていた。

「人殺しの顔をしていない、人殺し」が、怖くてならない。 | Books&Apps

 

「人殺しの顔をしろ」はものすごくクリティカルな表現だと思う。アーレントの凡庸な悪として読まれがちなところがあるけれど、もっと広範な領域に刺さる言葉なんじゃないかな。僕達は10年前も今もたいして変わっていやしない。相変わらず人を殺すこと(もちろん抽象的な意味です)に鈍感であるし、ややもすると10年前よりもその自覚が無くなっているきらいすらある。人を殺し続けているにもかかわらず人殺しの意識がどんどん希薄になっている。ましてや人殺しの顔をしている人などどこにもいない。

どちらかといえば人殺しが正しいとすら思いはじめてきているのではないだろうか。自分が先日書いた記事がまさにそのような論旨だったけれど

弁当と数と幽霊とインターネットと津田大介氏 - メロンダウト

自分がしたコメントが誹謗中傷になるなんて微塵も考えていない。さらにはコメントを向ける対象が悪人であればそのコメントは正当なものであるとさえ勘違いしている。こうした構造にたいして僕達はあまりにも無自覚にインターネットを使っている

 

 コメントの属人性が数に埋もれ希釈されているので、個々人が罪悪感を持つことはないと書いた。社会的に正しいことを言う人は自らが善人であり、マジョリティーであるという顔をしている。しかしながら結果としてその言葉は人を殺す言葉になる。ソーシャルジャスティスを振りかざしている人々は人殺しの顔をすべきであるが、おそらくは誰もそのような顔はしていない。みな自分が正しいと思っている。あるいは僕自身もそうである。

理由を考えるに、このような話はニーチェが言うところの「神は死んだ」に起因しているのではないだろうか。元来道徳はキリスト教的な世界線における啓示としてあったものだけど、ニーチェ実証主義哲学の台頭によって神がいなくなってしまったんですよね。本来はキリスト教的な教義が道徳を形作っていたけれど、それがなくなると「人間が考えた道徳という変な道徳」が出てくるようになった。

神が考えた道徳ならわかる。しかしお前は誰だ。おまえが考えた道徳で俺を啓蒙する権利あるのか?と永遠とやっているのが僕達である。

「僕が考えた最強の道徳」という恣意的な道徳によって世界を切り分けるとおかしなことになる。近年問題となっているほとんどの問題は「神の不在及び神の不在による道徳の恣意性」が絡んでいる。そしてそれは人殺しの顔ができなくなったことにも関係している。

前近代的キリスト教の道徳が正しいとは言えないけれど、それが仮に間違っていたとしてもその道徳は思想的な「軸足」として機能していたんですよね。自分が経験的に得てきた思想だったりをキリスト教の道徳と照らし合わせることによって、自分がどのような人間であるのかを相対的に浮かび上がらせる機能が神にはあった。そしてそれは神の権威によって成り立っていた。侵されざる神としてのキリストだからこそ、そこに絶対の比較級を預けることができた。人間が個々に考えた道徳ではそうはいかない。神という権威を挟まないとそれは機能しないのだ。僕も聖書を読んだことがあるけれど、あれは信仰の対象として読む以上に「それを神としてとらえて読む」ことで自らの在り方を投射する機能があるのだと思う。一方で、人間が考えた道徳は恣意的な線引きがされてしまう。利益誘導や詐術によって間違った方向へ持っていかれる危険がある。神という絶対の権威をそこに見出さない限り、道徳は道徳として機能しない。それを信仰するにせよ反発するにせよ、神が権威としてなければそこに絶対も相対も無い。

 

それが神の社会的役割だったのだけど、近代において「社会的機能としての神」はいなくなった。誰もが独自の道徳、神を信仰している。そうなると恣意的な道徳をふりかざす人が出てくるようになった。たとえばそれは資本主義であったり、リベラルであったり、国家であったり、セックスだったりする。

冒頭の黄金頭さんの記事に戻れば、施工業者が欠陥住宅をつくっておきながら人殺しの顔をしないのは資本主義を道徳として信仰しているからと言える。会社を経営し、社員を養っていくことが倫理を凌駕する恣意的な道徳として上書きされているのであろう。彼らの中でそのような理由=資本が道徳であり、神であるのだ。神が人を殺しても良いと言っている。ならば人殺しの顔をする必要などない。というかそんな意識すらない。彼らの中では資本を獲得することがすべてを正当化する道徳であり、神なのである。

資本主義という神の話で言えば、たとえばパチンコ店の従業員が笑顔で接客していることも、よりプロテスタンティズムに近い資本主義的道徳なのであろう。労働者である自分がどのような顔をしていようがそれは資本主義としての神=経営者の指示なので従うべきものとして正当化される。あるいはブルシットジョブと呼ばれる職種も例外ではない。

 

はたまたリベラルが道徳を持ち出すことが多いのも同様の構造となっている。世界ではこうなっているという大きすぎる話を神として引っ張ってきて道徳として使用する。神を世界に置き換えて疑似的に復活させることで啓示として人々に蒙を説いている。神は反論不可能であるもののほうが「神っぽい」ので世界を引用する。それを外部から見ると権威主義的に見える。リベラルが時に上から目線に見えるのは彼らが「彼らの神の代弁者」であることに起因している。

市民感覚としての白饅頭、知性主義の限界、経験の抹殺 - メロンダウト

 

ネトウヨなども国粋主義的な側面において同様であり、ツイフェミと呼ばれている人々も恣意的なジェンダー観や女性性といった道徳によってその善悪は決定される。セクシズムやルッキズムと言われるものも、より動物的なものとしての神をインストールしている。あるいは僕自身も例外ではない。最近だと朝井リョウさんは神だと思っていたりする。

いずれにせよその道徳、神は恣意的に召喚され、そして恣意的に抹消されては移ろっていく。ことあるごとに僕達はそれぞれに都合の良い神を呼び出してはそこに責任を帰依させ、人殺しの意識から逃れつづけている。

そのような恣意的自由に右も左も吸収されてしまったのが昨今の政治的風景なのであろう。僕達は思想的軸足をあえて持たない。ネオリベと言われている思想とはすこし違う。人殺しの意識から逃れるためのセキュリティーとして自由があるのだ。「本来あるべき人殺しとしての自我の戦慄」をアウトソースする機能として自由があるだけなのである。その意味で人殺しの顔をしろという批判はものすごくクリティカルに近代及び日本を表現していると言える。タイムリーな人殺しの話で言えば、五輪の開催で誰も中止を言い出せず責任を回避している状態こそがまさにそれである。

 

道徳が人殺しを正当化する。そしてそれは恣意的に線引きされている。誰を殺しても良い。そのような小児的自由とでも呼ぶべき恣意性が社会を覆っている。僕達は人殺しの顔をしない。できない。僕達の顔を映し出す鏡としての宗教が死んだからである。その代わりにそれぞれが恣意的に選べる「アプリ」によって自分がどんな顔をしているのかを加工することができるようになった。その加工技術のことを今日では道徳と呼んでいるのではないだろうか。