メロンダウト

メロンについて考えるよ

正義のありか、主体の消滅、第三者的方法論、あちら側とこちら側

いかにして人は救済されるべきか

いかにして加害者は罰せられるべきか

いかにして被害者は守られるべきか

あらゆる議論に通底しているのがこのような「裁断」となっている。犯罪の被害者になった方、ハラスメントに遭われた方、弱者男性女性、貧困、被災者

悲劇に遭われた方々に供給されるのは救済及び加害者への「応報」であるというのがこの社会における因果律となっている。因果には相応の応報が伴って然るべきであり、それは加害者にも被害者にも同様に与えられる。

そういった因果応報の増幅装置として動いているのがネット世論にもとづくメディアなのであろう。しかしながら、因果応報の原理は必ずしも歓迎するべきものではない。それは随分前から言われていたことであるが、ネットリンチや炎上と呼ばれるものによって特定個人を因果の中に押し込めて裁断するというのは、つまるところ自らの感情を社会に譲ってしまっていることだとも言える。あるいは自らの感情を過度な方法論へと転化させてしまっている。そのような自己の譲渡とでも呼ぶべきものが大きな錯誤を生んでいるのではないだろうか。そんなことを思うようになった。

 

一般に、なにか被害に遭った時に第三者を介入させたり、訴訟を起こして司法に判断を委ねることは正しいことである。さもなければ加害者と被害者のパワーバランスによってのみ利害が決定することになってしまう。方法論としては第三者に介入してもらうのは望ましい解決方法であろう。しかしながら、そうした「方法が正しい」という考えに関する弊害は、あまりにも見過ごされてきたのではないだろうか。

この社会はおよそすべてが方法論として回収されている。社内でのハラスメント問題、DV、監査、第三者委員会、いじめ、炎上、法律などすべて第三者を介入させることによって客観的に判断されることを是としている。そのような方法論自体を否定する人はいない。生活保護の申請に共産党の議員を連れていく。犯罪にあったら警察に通報する。貧窮したらNPOに頼る。リクルートを使って就職活動をする。コンサルタントに相談する。編集者に校正してもらう。あるいは貨幣制度そのものが貨幣という第三者に絶対の権力を置いている状態だと言うこともできる。最も大きな話で言えば三権分立での司法がそれにあたる。善悪や正義、こうあるべきだという判断は第三者によってなされるべきものとして考えられている。しかし僕達はそれによって「正義を手放してしまっている」のではないだろうか?あるいは第三者の権力が大きくなりすぎたのではないだろうか?

 

ベタな話で言えば、僕達はことあるごとにインターネットに投稿してその賛否を問う。記憶に新しいものとしては伊是名さんとJRの件がある。車いす生活者は電車に乗ることも一筋縄ではいかないという困難を社会問題として提起していた。あれも第三者にその判断を委ねる行為だった。僕達はあらゆるイシューを世に問い、答えを求める。それは方法論として肯定される。

正義のありかというと大仰に過ぎる気がしないでもないが、この社会の正義は「第三者」に委ねられている。第三者を召喚する方法が正しいとされる。三権分立における司法のように。利害関係やパワーバランスが存在しない独立性を持った機関によって正義は行われるべきだという司法のありかたに則り、第三者が判断することが正しいという価値基準はおよそ支配的である。

しかしながら、三権分立における司法と、僕達がことあるごとに持ち出す第三者的方法論はその様相がすこし違う。司法は独立性が担保され法の下に運営されているが、僕達がその正義を委譲する第三者は独立性が担保されているわけでもないうえ、利害関係から離れているわけでもない。

伊是名さんの件にしても政争の具と化してしまい、ポジショントークに回収されてしまった側面があった。リベラルが障碍者という属性によってのみ彼女の行為を擁護していたように、第三者にその判断を委ねた時、その正義はポジションに吸収されてしまうのがインターネットの常である。

いずれにしろ物事は第三者によって判断されるべきだという方法論はひどく危うい側面を持っている。にも関わらずそれはあまりにもピュアに肯定されてきたのだ。

 

 

「第三者によって客観的に判断されたことが正義である」という思考の癖はものすごく大きな弊害を生んでいる。三島由紀夫が言っていた空気に迎合する日本人というのも、ようするに第三者にその正義を委託している状態だとも言える。僕達が正義について言いよどむのは正義がこちら側のものではないという考え方に由来しているのだろう。正義はつねにあちら側のものとして扱われてきた。社会や司法や法律が正しさであり、それに否定されたものは駄目だというあちら側の判断によって正しさは規定されている。このような趨勢はインターネットによって情報が開かれた現代においてさらに加速し、支配的になっている。あちら側が正しいという空気に抗うことはとても難しい。司法によって裁かれる悪人のように、すべては第三者の判断によって何が正しいか正しくないかが決定される。何が正しいかという善悪の判断以上にそれは方法論として肯定され、この社会を覆っているのだ。

 

この手の問題は司法が正義を判断するべきだという三権分立を程度問題として否定しなければいけないので、とても難しいことではある。概念的な正義のありかたと司法における正義は本来別物であるはずなのだが、それがいつのまにか同一視されるようになった。司法に正義をあおぐように、僕達は社会にその賛否を問う。自らの怒りが正当であるかどうかさえも社会に還元し、第三者によって判断されることを是としている。そしてそれが当たり前になればなるほど僕達は自らの正義について考えることをやめ、主体的価値基準を手放してしまったのであろう。

あるのは事例や属性、マイノリティーやマジョリティーといった区分であり、社会問題として現れるのは「あちら側の問題として定義しうるものだけ」となっている。こちら側はあちら側の定義に乗ることによって正義の俎上に上ることができる。そのような方法でしかこの社会で正しさを定義することはできなくなった。弱者男性論がフェミニズムというあちら側の定義を引用するように、あちら側の定義によってのみ区分し、正しさを戦わせている。議論においてブーメランという批判が頻繁に使われるのも方法論としての定義づけにみなが終始しているからこそ強烈な皮肉として機能するためであろう。そのような現況において、あらゆることを俎上に載せ続けることであちら側の領域はどんどん拡大している。すべてをあちら側の正義によって区分していく限り、主体としての個人はいなくなり、個人は属性や集団の駒になってしまったのだ。LGBTが政争の具と化してしまったように、こちら側は問題にされなくなる。

 

「正義とはこちら側が考えるべきものではなくあちら側にあるものだ」という考え方、方法論は政治の現場にも色濃く表れている。第三者によって正義が判断される社会に生きる人々には3つの選択が与えられている。

・正義について考えることをやめるか(無党派層

・あちら側の正義に乗っかるか(リべサヨ、ネトウヨ

・それでもなおこちら側の正義を信じるか

 僕達が政治に関心を持てないのはなぜなのか、様々なところで考察されることであるが、そのひとつに「何が正しいことか『こちら側』が考えても意味を為さないから」がある。正義があちら側にある以上、正義にコミットするにはあちら側と同化するしかない。あちら側に正しさの軸を置いている限り、主体的に考えて判断することはとても難しく、意味がない行為だとすら言える。そのような政治状況にあってなお自らが正しさについて考えるべきだと言うことにどれほどの意味があるのだろうかと、僕なんかは思ったりする。

 

 この社会はおよそ主体的な正しさを持てるようにはできていない。あちら側に正しさを委ねる正義の方法論として主体性は否定されている。中庸という概念もそれに寄与しており、三権分立という社会のありかたもそれを基礎づけている。正義について考えないことが正しく、個人が考える正しさなどないという言論はおよそ支配的であるが、だからこそ逆説的にべっとりとあちら側の正しさに張り付くことになる。政治的にはそれがネトウヨであったり、フェミニズムだったりするが、いずれにせよこちら側に正しさを認めない方法論そのものがあちら側の正しさに過度な影響力を持たせ、同時にこちら側の無力感をも生み出すという建付けになっている。

 

さらに言えば、第三者によって肯定された時にのみ主体は主体として存在することを許されるのだから、つまるところ自ら主体を構築する行為とは適応以上のものにはならない。あちら側の世界に行くためにみな成長しようとするし、あちら側の世界の住人として生きていきたいからこそより強く適応しようとする。そうした社会の在り方の根本原因として第三者によって判断されることが正しいという方法論が厳として存在する。

それは現実でもネットでも、あるいはフィクションにおいても変わることはない。あちら側の方法論自体を否定する言説はいまのところあまり見たことがない。もちろん僕も否定したいわけではない。システム、メディア、インターネット、三権分立などの社会構造を否定できるはずもない。ただ自覚的でありたいとは思っているだけだ。善悪を判断する正義よりも以前のこの社会の定義としてあちら側の理論、第三者的方法論が居座っているのではないか。

 

うまく書けてない気がするけれど、この社会の構造や正義のありかたそのものが正しさから人を引き剥がしているのではないかと、そんなことを思うようになった。