メロンダウト

メロンについて考えるよ

メリトクラシーという果実、コストクラシーという物語

日本における価値基準とはなんなのだろうか。サンデルの本を読んで以降ずっとそんなことを頭の片隅で考えている。

アメリカではメリトクラシーが支配的な価値基準となっていて、オバマの時代にそれが醸成され、カウンターとしてトランプが出てきて、バイデンによって修正されかけている。アメリカの現状はよくわかった。well-deservedという価値基準によって人々が分断されているのだと。資本主義を放任した結果、政治的に捻じれた現象がアメリカでは起きていて、その根本にメリトクラシーがあり、それを解決しない限りアメリカの分断が癒されることはない。サンデルの主張はまったくもって正しいのであろう。資本主義がいきすぎた結果さまざまなところでひずみが出てきている。いろいろな記事や本を見る限りそれはおそらく間違いない。そうした状況は日本も例外ではないと言える。日本型の終身雇用は崩壊し、雇用の流動性が言われるようになり、個々人が能力によって評価される能力主義は日本においても支配的な価値観である。学歴、経歴、能力など人材としての在り方を求められるようになった日本の状況はアメリカと重なる部分がある。

しかしながら、そうした言説だけで日本社会を説明するにはなにか「足りない」気がしているのだ。日本におけるメリトクラシーアメリカのそれよりもより思想的な側面が強い「フィクショナル」なものではないだろうか?

というのも実際の日本社会を見通した時に、実力や業績が評価基準となっている例はそこまで多いようには見えないからだ。実力や業績による査定も充分に支配的ではあるもののそれは二次的な「結果」に過ぎないように見える。

 

 

メリトクラシーの語源は英語のmerit(業績、功績)とギリシャ語のcracy(支配、統治)からきており、功績や業績によって人々が配置されていく様を指している。アメリカの状態はまさに能力主義メリトクラシーと言って良い状態であるが、日本において業績や能力が適正に評価されているのかと言えば疑問が残る。むしろかなりの勾配があるのではないかと。日本もアメリカのような能力主義に傾きかけていることは間違いないし、このまま行けば能力主義が支配的になることは自明ではある。しかし今の日本の現状を説明するには片手落ちの議論ではないかと思っている。

結論から先に書いてしまうと日本において最大の評価基準となっているのは「人生にかけてきたコスト」ではないだろうか。

能力が評価されていることは表層であり、それは結果に過ぎず、むしろ「コストそれ自体」を先んじて評価すると見たほうがより正確ではないだろうか。あくまでも能力は「その人がどれだけのコストをかけてきたかの結果」であり、それ以前のコストに重きを置くのが日本的な価値基準に見えている。

日本の企業を例にとって見ても会社の勤続年数や年齢などが出世やポストを得る大きな要素になっていることは疑いようがないし、それは時に能力以上の評価基準となっている。能力がなければ相応のポジションにつくことはかなわないが、それ以上に会社や社会にかけてきたコストがなければ多くの場合、その能力を査定される俎上にあがることすらできない。そうした「ふるい」はいまだに日本では支配的であり、社内の人事だけでなく、新卒で就職活動する時に出身大学やエントリーシートで弾かれることもそれを表している。能力が評価されるためには事前に支払うべきコストが必要であり、その点において日本ではメリトクラシーよりもコストクラシーとでも呼ぶべき「労苦の証明」が先にあるのではないだろうか。あくまでも日本型企業の場合とは言っておかなければならないが。

もちろんこうした議論はメリトクラシーと重なっている部分も大きい。コストクラシーと言っても出自などの先天性によってコストをかけられるかどうかが決まる。こうした論点はサンデルやロールズがすでに指摘している論点とも言える。なので過度な細分化と言われればそうなのだが、上述したような状況から日本社会を能力主義と言い切ることは難しいと考えている。

日本では人それぞれが支払ってきたコストを天秤にかける傾向がある。ややもするとそれは能力よりも先んじて評価されている。日本人はコストにたいしてものすごく敏感に反応する。たとえば今般の五輪がサンクコストの問題により中止を決断できないことも、コストを無視できないゆえであろう。あるいは、漫画や映画でバックストーリーとして悲劇が描かれることが多いのもコストに共感する国民性ゆえだと言える。

たとえば悲劇の主人公がいたとして、彼が支払ってきた「コストに応じて能力が付与される」のがフィクション全般に見られる傾向である。悲劇というコストを物語によってあぶりだすことで登場人物の能力が担保されるのだ。読者はそれを読んだ時にそれだけの悲劇があればこそ彼に幸せになってほしいと願い、時にその能力は規格の枠を飛び越えても許される(エクスキューズされる)ことになる。

こうした物語の構造が日本人にウケるのはなぜかと言えば、コストを支払うことそのものに尋常ではない価値を置くからであろう。

アメリカ式のメリトクラシーはwell-deservedという現実の努力や功績に支えられているが、コストクラシー(が仮にあるとしたら)はより思想的な側面が強いフィクションや物語の構造に近い。悲劇には対価が必要であるというフィクションは現実を反映していると見ることができる。悲劇は現実にはコストとして「勘定」され、対価が支払われるべきだという建付けになっている。物語が先にあり、物語という土台の上に能力が評価される。つまり日本における能力は「物語の結果」に過ぎないと考えることもできる。

学生時代に恋愛を犠牲にして勉強したり、社内で誰よりも遅くまで残って仕事したり飲み会に出たりと、コストを支払うことと努力は重なっている部分があり、努力をしてきたものが能力も高いことが多い。しかしそれは本質ではないように思う。努力とコストと能力が連動しているからと言って能力が評価されているとは限らない。むしろ努力やコストそれ自体に価値を置くのが日本での評価基準のように見えている。

能力がそれほど適正に評価されているようには思えないのだ。ベタな生活レベルにおいてもそうであるし、あるいは世襲議員が多い政治家などを見てもそうである。能力が評価されていることは間違いないが、それよりも先んじて評価されているのはコストそのものであり、それは物語やフィクションとして肯定されている。能力単体で評価されることは実のところ極めて少ないのではないだろうか。

能力はその人の物語の果実として出てくるものであり、その果実が評価されているように見えても、果実を期待できる幹にこそ果実が実るかもしれないという物語を「先んじて」見るのが日本的な価値観なのであろう。

幹がどれだけ美しくても果実が実るとは限らない点で、果実を生んだ幹の功績を評価するアメリカのメリトクラシーは日本のそれとは違う。日本においては幹にかけられたコストに重きを置き、そこに実るかもしれない果実をフィクションとして期待するのである。

 

あくまでも個人による私見であり、まったくもってなんの裏付けもないうえに、コストの問題は出自によってかけられるコストが決まるという話が根底にあり、サンデルの議論の枠を出ない。しかしながら日本においてのコストはよりフィクショナルな側面が強いように思う。