ゼレンスキー大統領の演説を見た。素晴らしかったと思うと同時に妙な違和感を覚えた。日本の国会議員がスタンディングオベーションしていたからである。日本は自由主義陣営としてウクライナと共にあると表明することは正しいと思う一方、奇妙な対比を感じずにはいられなかった。
ゼレンスキー大統領といえばウクライナ侵攻が始まる前まではポピュリズム政治家として知られていた。新露派にも反露派にも嫌気がさした国民が第三の選択肢として選んだのが旧来の政治的イデオロギーとは無関係な役者出身のゼレンスキーであった。だからどうだという話ではないのであるが、役者出身の政治家が見事なスピーチを披露する様を日本の政治家が総出で讃える一方、前総理大臣である菅義偉氏はそのスピーチ能力が度々疑問視されていた。他国の大統領の見事なスピーチを讃え、自国の首相にスピーチ能力がない人間を選ぶというこのアンビバレンスはいったいどこからきているのだろうか。
結論から言えば戦時かそうでないかが最も大きな違いであると考えられる。自国の存亡がかかった局面においては菅前総理も「火事場の政治力」を発揮し、国民感情に響くスピーチを行うのかもしれないし、そうでないのかもしれない。いずれにせよ戦時と非戦時下の国にあっては言葉にたいする緊張感や覚悟が決定的に違うのだろう。
それは市民レベルでもよく言われることで、戦時に生きた人々に比べ僕達はほとんど物を考えていないと言われることがある。戦争を知っている先人達の言葉の重みに比べれば僕達はあまりにものっぺりしているのだ。
あるいは江戸時代の侍の肖像画と今の僕達の顔つきにも違いがあり、死ぬか生きるかという局面に相対した人間は良かれ悪しかれ別人となるのだろう。
また、フェミニズムなど昨今話題の議論は戦争というリアリティーの前では吹き飛んでしまう程度のものであるとも言えてしまう。
もっと普遍的に言えば「悲しさを知ってる人のほうが優しくなれる」「学歴がある人のほうが優秀である」「失恋を経験した人のほうが恋愛する能力がある」と僕達は考えがちだ。経験がつまり能力を担保するというのはかなり一般的な人間観として採用されている。
戦争を知らない人は戦争を知っている人にたいして能力的に劣る。それはおそらく事実なのだろう。しかし一方で、そうした「物語主義的」「能力主義的」な考え方はどこまで賞賛されるべきものなのだろうか。あるいはそれを批判していたのが昨年話題になったマイケル・サンデルの著書ではなかったのではないだろうか。
マイケル・サンデルは昨年、『実力も運のうち 能力主義は正義か?』という本の中で能力主義を批判していた。
内容を簡単に書くと「人は出生時の環境によって受ける教育レベルが違い、その教育によって能力が形成されていくため、実力も運のうちということになる。よって学歴をもとにした差別や大きすぎる教育格差、及びその教育にもとづく収入の格差は正義にもとる」という論旨であった。
たとえばこれを戦争という事態にあてはめると以下のようになる。
「人は戦時になれば能力が開花し、その能力に応じて人々から賞賛を得たりする点で実力も戦争のうちである。」
かなり無茶苦茶な話であるが、歴史的にも結局は戦争に勝ってきた国が国家としての能力があると見なされ覇権を握ってきたことも事実である。戦争が国民感情を刺激し、人々に物語をもたらし、その物語が人々に能力をもたらすというスクラップ&ビルドを人類は常に繰り返してきたのだ。日本にあっても戦争の記憶を語る人が決定的な正しさを持ち、その語りは常に大きな影響力を持って人々に受け入れられている。その語りは「戦争は悲劇だ」という視座を僕達に与えてくれる点で貴重で尊いものであることは間違いない。しかし他方ではそうした語りを基礎づけているのがつまり戦争は有無を言わさぬ経験であるという思考様式であり、反転して見れば「戦争という悲劇が決定的な正しさを形成する」という逆説がそこにはあるのだ。戦争はいけないと言いながら戦争を知っている人が強い影響力を持つ。この逆説構造をなんとかしない限り、平和は常に負け続けていくことになりはしないだろうか。
ゼレンスキー大統領には「能力」がある。ここ一か月あまりで世界中の人が気づいたことだ。
しかしこの戦争における別人化をどこまで賞賛して良いのかは甚だ疑問だ。当然ながら戦時の国にあって能力がない人間がトップにいては大きな悲劇に見舞われてしまう。したがってゼレンスキー大統領の振る舞いを批判したいわけではない。
問題とすべきは僕達がゼレンスキーの能力に勝てないという事態そのものである。ありていに言えば僕達は戦争(がもたらす物語や能力)に勝つことができない。それは言論から政治、個々人の精神などあらゆる側面から言えることである。一言で言えば平和ボケとも言えてしまうわけであるが、しかし戦争という物語のほうが大きな力を持つ限り、平和は常に負け続けてしまう。
日本という平和な国から此度の戦争を眺めていると、戦争が持つリアリティーにたいしては勝てないなという感が日に日に強くなっていく。それは実際の戦争で家族が亡くなったりすることに比べればあまりにも観念的であり、取るにたらないもので、勝手な敗北感というやつなのだろうけれど、しかしそうした敗北感(無能力)をいかにして戦争(物語)と対置するかを考えるべきではないだろうかと、そんなことを切に感じているのである。
僕達はウクライナ国民に比べて物語を持っていない。あるいは能力だって劣るのかもしれない。戦争がどんなものであるかさえ知らない。ゆえに簡単にシミュレーションを行い、軽い言葉を吐いたりする。そうした「軽さ」は実際の戦争を知っている人からすればくだらない妄想にすら映るかもしれない。それでもなおその軽さを否定してはならないように思うのだ。サンデルが能力主義を批判したように、戦争によって培われる能力もまた運のうちという、ただそれだけのこととして戦争を切り離すべきなのかもしれない。なればこそ戦争は何ももたらさないと言うことができる。仮に能力をもたらそうと、「だからなんだ」と言うことが大切のように思う。
戦争により物語が生じ、正しさが生まれ、偉大なリーダーが出てこようとも、その物語にたいし過度に媚びへつらうことはやめ、僕達は僕達の軽さを持ち、粛々と戦争には反対し平和を享受していけば良い。
それがここ一か月あまりの戦争報道を見続けてきたひとりの日本人の感想である。