メロンダウト

メロンについて考えるよ

偽の道徳に囚われる必要はない~道徳と恋愛のダブルバインドについて~

面白かった。

davitrice.hatenadiary.jp

こんなブコメをつけた

道徳と恋愛は相性が悪い - 道徳的動物日記

人に加害してはいけないばかり語られるけど、本来は人を許容するのもまた道徳のはず。許容性の議論が置き去りになってる気がするんだよね。

2021/03/16 12:36

b.hatena.ne.jp

 

 

かなり社会の核心に迫る記事だと読んでいて思った。

ちょっと長いです(4300文字)。

少子高齢化問題もこの議論でかなりのところまで説明がつくような気がしている。というのも、上記記事では書かれていなかったけれど、加害性によってコミュニケーションが不可能になる例で最も大きなものは「年齢を重ねると恋愛できなくなること」にあるように思えるからだ。学生時代には普通に恋愛していた人が社会人になると恋愛できなくなるケースはかなり多い。周りを見ていてもそう感じる。社会人になり、社会の規範(道徳)を守るようになると他人に侵入することができなくなり、恋愛することが不可能になる。それは上記記事で書かれている通りの思考が働いてしまうからであろう。そして少子高齢化が進む。その意味でこの議論はかなり重要な議論だと言える。

恋愛における加害性・侵入性を守りつつ、道徳的な社会規範をも同時に守る。おそらくはそういう論の立て方が必要になる。

あくまでも個人の意見として聞いてほしいのだけど、結論から言えば被害者を「神格化」しすぎていることに根源的な原因があるように思えてならない。

たとえば、最も不利な例をあえてあげると、いじめの問題がある。いじめは加害者と被害者の二元論で語られることが一般的である。いじめられるほうは悪くない。いじめるほうが悪いという単純化された議論がかなり一般的に言われる。教育現場においてもそうであるし、市井の人達もそう考える人が多い。僕自身そう思う。しかしそれは「子供の世界」の話であって、独立した人格を持つ(という社会契約的な前提によって成り立っている)大人の世界にまでその論理を適用するのは間違っていると言うべきであろう。

大人同士であれば、たとえ加害されたとしてもそれを断ることが求められる。それが社会契約で成り立つ大人の世界で求められる振る舞いである。このように書くとそれだけで批判されそうであるし、個別ケースで見れば断れない状況などもあるので過度に一般化すべきではないのはわかっている。しかしそれは加害と被害に切り分けてしまう二元論にも同様のことが言える。

「独立した人格を持つ大人同士であればすべては社会契約としての交渉に過ぎない」

と言うことができないように

「被害者を尊重し、加害性を排除するべきである」

と言うことも同様にできないのである。

社会契約が万能ではないのとまったく同じ論理をもってして加害被害の二元論も万能ではない。

ここまで書いたことをまとめると

加害被害の二元論で判断されるべきなのは子供の世界の話であり、大人同士であればそれとは別の軸=社会契約が必要となる。前者を一般化し、人間関係におけるルールとして採用すべきではないのと同様の理由で後者も採用すべきではない。

つまり、「加害も被害も現実に有るものではあるのだが、同時に無いもの」と考えるべきであり、社会契約もまた然りである。加害も被害もある、しかし無い。そのように、未決定のまま据え置いておくことで恋愛における侵入性を守ることができる。その次の段階において、相手に侵入したところで道徳や社会契約の議論がはじまる。関係性そのものがなければ道徳も社会契約もなにもないということを今一度思い返すべきであろう。

 

ここまで書いてきたことを前提に、それでもなお、僕達が他人に侵入するのが難しいのはなぜなのかも考えてみたい。

それに関しては、ブコメにも書いた通り、許容性の議論が置き去りになっていることにあると考えている。道徳というのは他人に迷惑をかけてはいけない、加害してはいけないばかりが語られる。けれどその一方で、相手をいかに許すことができるかも道徳であったはずだ。道徳というよりも美徳と言ったほうが適切かもしれないがどちらでもかまわない。他者の間違いや迷惑、もっと言えば加害行為をいかに許すかの議論が置き去りになっていることは間違いない。

被害者がそれを加害だと言った瞬間に加害だと判断されるのが一般的な認識になってしまっているけれど、それを許している人達もいる。不倫行為を許す配偶者だっている。告白されても告ハラだと言わない人もいる。すべての加害行為が許されていないわけではない。考えてみれば当たり前の話でしかない。許す人間と許さない人間がいる。そして、許される行為と許されない行為とがある。

ここで問題なのはそれらの許容性が表に出てこないことにある。道徳としての許容性が社会の表に出てこない。許容性はあくまでも個人の美徳として処理され、社会一般の認識にまで広がらないので「許されていない加害行為」だけがクローズアップされ、加害行為はいけないという道徳だけが広まってしまっている。特にインターネットではそのような傾向が強い。不祥事や悪いことをした人間を許すべきであるという意見はほとんど表に現れてこない。しかし、現実には加害行為を許している人達だってたくさんいる。それはもちろん加害の程度にもよる。そして、許すか許さないかは完璧に個人の裁量に委ねられるべきでもある。

しかしながら大事なのは、加害行為を許してくれる人達も世界にはたくさんいると「認識」することではないだろうか。他者が寛容であると認識することで恋愛においても加害被害という道徳的監獄から抜け出し、自由になれる。おそらくはそういう思考の持ち方で間違っていないはずだ。世界は「思いの外」優しいのである。道徳とは、言ってしまえば単に思い込みに過ぎなかったりする。過度に論理的に語られ、道徳という言葉に引きずられることで、まるで道徳が世界のルールであるかのように考えてしまうけれど、考えてみれば道徳もまた先験的(経験に先立つ)な思い込みに過ぎないものだったりする。

その点において、自分がどういう思いに先験的に囚われているのかを認識するためにはメディア論的なものも付随して書いていく必要があるように思う。

(すこし長くなってしまっているけれど個人的にも大事なエントリーだと思うのでちゃんと書きたい)

 

言うまでもなく今のメディアを支配しているのはSNSをはじめとしたインターネットメディアである。そして、ネットメディアの特性として謝罪が機能しないことがあげられる。謝罪の不在。これが加害被害という二元論を生み出した背景にあると考えられる。

ものすごく簡単に言えばネットメディアは「謝っても許してくれない」という認識を人々に与えてしまっている。そのため、最初から何もしないことが正しいと考える人が出てくる。それが加害の先験的回避という道徳を生んでいる。

芸能人の不倫にしてもそうであるが、政治家の発言や個人の炎上などなにからなにまで謝罪が謝罪として機能することは極めて稀である。ネット上においてはこちらに許す意味がないのでそれも当然と言えば当然である。たとえ謝ったとしてももうそこに人はいない。悪いことをしたら単に人は離れていく。ネットとはつまりそれだけの関係性であり、本来そこに道徳もなにもない。

ひとつ例としてあげると、長谷川豊氏が「透析患者は全員殺せ」と発言したことがあったけれど、それを見たネット民は袋叩きにしてお終いだった。謝罪を聞こうとも思わなかった。単に長谷川氏から人が離れていっただけだった。

究極的にはネット上のイザコザなどすべてはどうでもいいから許すもなにもなく、すべては風化し、忘れられていくだけなのだが、とにもかくにも謝罪が機能しているとわかる出来事をネット上で見ることは極めて稀となっている。

しかし、メディアのそれと人間関係のそれとは似て非なるものである。人間関係は人間関係に閉じられている点で、謝罪すべき時には謝罪し、許すべき時には許すというコミュニケーションが必要になってくる。ネットのようにどうでもいいから許さないということはあまり無い。友情でも愛情でもそうであるけれど、人間関係がどうでもいいとして切断できることはほとんどない。ゆえに謝罪が機能する場面も多々ある。もちろん許されない時もある。

いずれにしろ、ネットのように謝罪しようとしたらもうそこに誰もいないということは現実にはほとんどない。

 

結論を書くと

インターネットはその関係性が希薄であるため、謝罪と許容が機能する場所ではない。ゆえにインターネットで道徳をつくってしまうとそれは許容性を排除した道徳になってしまう。そして許容性を排除すると加害被害の原則しか道徳として残らなくなっていく。加害被害の原則を突き詰めれば、最終的には加害性そのものを悪と考え、何もできなくなる。それを現実に適用すれば恋愛においても相手に侵入することはいけないという奇妙な思い込みが生まれる。それが今日の歪んだ道徳の正体であり、そこから逃れるためにはその思い込み=先験性の外に出る必要がある。

 

この話で思い出したのが東浩紀さんのテキストなので貼っておきます。

genron-alpha.com

 

子どもを幸せにしたいと努力したからといって、必ずしも子どもが幸せになるわけでもない。いくら努力しても子どもが不幸になることはあるし、逆に放置していても子どもが幸せになることもある。つまりは、「子どもを欲しいと思うこと」「子どもができること」「子どもを幸せにしたいと思うこと」「子どもが幸せになること」は、むろんつながってはいますが、しかしかなり独立した事象です。だから、子どもを幸せにできないのではないか、だとしたらつくってはいけないのではないか、欲しいと思ってもいけないのではないか、と遡行して考える必要はありません。それは偽の問題です。

 

出生の加害性に関して書かれたものだけれど、一般的な加害性の議論においてもかなり本質をついているように読めます。

人に加害してはいけないので加害する可能性のある行為をしてはいけないと遡行して考える必要は、おそらくない。というかそれは結果でしかないのでしょう。考える必要はあるけれど、そこに囚われるべきではない。

偽の問題を考える必要はないのとまったく同じように偽の道徳に囚われる必要もないはずである(自戒)