芸能人が失墜する件が話題だけど、芸能人の権威がなくなる時代、というよりもなにかみんな芸能人みたいになってきたなと感じることがある。芸能人と言わず配信者やYoutuber、有名人でも呼び方はなんでも良いのだけど、人に見られている前提のふるまいを常に要求されている感を持っている人がわりといるのではないかと思うことがある。ひと昔前で言えばキョロ充というやつで、もっと古臭く言えば空っぽな日本人がそれにあたると思うけれど、こうした過ー受動的な傾向は近年、強くなってきているのではないだろうか。コミュニケーションの取り方にしても喋っていることがデフォルトで間があると困る人であったり、隙間時間があればスマホを見るように、端末や会話相手と常に接続していないと不安になってしまうようなそんな感覚を僕自身、覚えることがある。
テレビに出ている芸能人だったり、ネットで配信している人は常にしゃべり続けてるし、ネット上のプラットフォームでは回転率を上げるためかショート動画や短文メディアが今や主流となっていて、どんどん「間」が埋められていっている。芸能人などは視聴者に退屈させないようにするのが仕事なのでそれで良いと思うのだけど、なにかネット社会になって以降、その矢継ぎ早なコミュニケーションが市井にも滲み出してきているように感じている。
似たような話ですこし前に話題になったのがタイパやコスパといった概念であるけれど、タイパやコスパはあくまでも消費をベースにした話で表現をどう受け止めるかといった態度の問題であった。しかし表現を広義に捉えるのであれば会話相手が喋っている内容も表現のひとつと言える。そこに「パフォーマンス」を求めるとかなりおかしなことになる気がしている。当然ながら普通に会話する時にパフォーマンスを気にして喋ることはほとんどない。気にするとすれば恋愛関係になりたい相手を口説く時やプレゼン、商談、面接の時ぐらいのものだろうか。それ以外の場面でパフォーマンスを気にしてコミュニケーションを取ることはあまりない。しかし最近はどうもそういうわけでもないのではないか、といった印象を受けることがある。
個人的な話であれだけど、去年のお盆だったかに知人が実家に帰ったという話をしていた際、その知人が「家族で食事をしていて盛り上がらなかった」という旨の話をしていたけれど、盛り上がるか盛り上がらないかで測ってしまうこと自体がなにか違っているのではないかと感じたのを覚えている。その時、僕は「そんな盛り上がるものではないでしょ(笑)」と返したけれど、ただ、そうやってなにかにつけパフォーマンスを見てしまう感覚はわからないでもないのだ。
タイパやコスパといったものを内面化している人はもとより、これだけ情報社会化すると誰もがパフォーマンスに絡めとられざるを得ない。時間を気にしないで生きようと思っているとむしろ永遠にショート動画などを漁ることにもなりかねないし、コストを意識しないで生きていこうと思ってもそういうわけにもいかない。つまり全員が程度の問題はあれど物事をパフォーマンスで測らざるを得なくなっている。
そしてお互いがパフォーマンスを大事にしているといった前提でコミュニケーションを取るとどうなるかと言えば、相手の時間を奪ったり、ハラスメントに代表されるような感情的侵襲は総じて避けられるようになる。飲み会が回避されるようになったのも、結局のところ、相手の時間を奪ってはいけないといったパフォーマンスの話に着地するのだろう。そして、相手がパフォーマンスを気にしているという前提に立ちコミュニケーションすればお互いがパフォーマンスを最大限発揮させようと思い、自然、芸能人や配信者のような間を置かないかつ面白く相手を傷つけないコミュニケーションへと洗練化していくことになる。言うなれば「コミュパ」である。
その結果、今の若い人はかなりコミュニケーションがうまい人が増えている印象がある。
しかし視点を変えてみれば、そうしたパフォーマンスを意識してコミュニケーションをとるのはどこか強迫観念めいていて本当にそれで良いのかと思わなくもない。ベタに言えば幸福なことなのだろうかと。
ただまあ、時代的にもうそういうものに適応せざるを得ないのも事実で、考えてもあまり詮無きことなのは確かである。