メロンダウト

メロンについて考えるよ

災害でパニックになっているのはどこか考える

あけましておめでとうございます、と言えるような年明けにはならなかったですが、とりあえず、あけましておめでとうございます。

 

能登半島で起きた地震にたいして切り込み隊長(古い)が記事を書いていた

note.com

 

 

これを読んで思い出したのが災害ユートピアだった。災害ユートピアはいわゆるスクラップアンドビルド的な話で、災害によってそれまでの生活様式が崩壊すると人々は相互扶助を構築し、手を取り合うようになるというものである。

 

 

文明が発達すると個人が自由に生活できるようになるけれど、自由が行き過ぎると共同体が失われるのはよく知られている。近年では無人レジをはじめDXなどによって人と話す機会は減ってきているし、共同体の崩壊と言われて久しい。ここでその是非について書くつもりはないので割愛するけれど、いずれにせよ、日常生活において共同体はかつてよりかは必要とされていない。そんな生活を送っている。

そうした生活が破壊され立ち行かなくなると人々は手を取り合うようになり「絆」が再起動する。行き過ぎた自由に閉じ込められているのがディストピアだとすれば、そこから解放される災害時の連帯をユートピアと呼ぶことも、できなくはない。それが災害ユートピアの論旨となっている。もちろん災害そのものは、命を奪われる人がいるため、悲劇であることは間違いないものの、悲劇を共有することで人々が連帯するようになるのは事実としてそうなのだと思う。

 

 

そして災害ユートピアで指摘されていたもうひとつ重要な概念が「エリート・パニック」というもので、この概念は山本一郎氏の記事を読む際に役立ちそうなので紹介したい。

前提として、災害時にたいするテンプレ的なイメージとして「災害が発生すると人々は混乱し略奪や凌辱に走るようになり治安が崩壊する」というものがあるが、これは一般に流通しているイメージよりも少ないようである。よく海外と比較する形で災害時における日本人の振る舞いを称賛する言説を見ることがあるけれど、災害ユートピアによれば海外でも災害時は相互扶助のような善き行いが発生することが多いようだ。人は悲劇に相対した時、悲しみに暮れはするものの、悪行に走ったりなどは、ほとんどの場合、しないのである。

ではなぜ災害時に群衆がパニックになるといったイメージが定着しているのかと言えば、エリート層が治安の崩壊を恐れているからだと説明されている。

エリート層は、その手法は様々なれど、群衆は何も知らず静かに日常を送っていてほしいと考える。革命などが起きてエリートの地位が脅かされることを嫌うからだ。

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災害が起きた時に民衆が結託し、日常においては力なきバラバラの個人が集まることはエリートにとって不都合な出来事であるし、ましてや災害という悲劇を乗り越える物語の訴求力は政治的に言えばかなり強烈なものとなる。それによってエリートの地位が脅かされるかもしれないという予期不安によってエリートがパニックに陥る。それが「エリート・パニック」と呼ばれる。

災害は確かに悲劇であり、時にパニックに陥ることだってもちろんあるだろう。しかし人は災害にたいしパニックになるのと同じかそれ以上に災害にあった人がどうするかわからないという未規定性のほうにこそ慄く。そしてその度合いはエリート側、つまり自身は安全だと考えている人のほうにたいし強烈に働く。

 

エリートパニックが是か非かという議論はあるだろうし、今の社会でエリートと市民という分け方が単純に通用するとは思えない部分もあるけれど、ただ、当事者と第三者で分けた時、災害のみならず何か事件が起きるとパニックになるのは第三者のほうなのではないかと感じることは多々あるように思う。特にSNSでは。

 

実際、今回の震災においてもパニックになっているのは被災者のほうではなく、東京を中心とした統治側・安全側のほうであるように見える。山本太郎さんが被災地に行くことで物資が届かないかもしれないという予測でパニックになっていたりする。また、一般人が被災地に駆けつけることによって渋滞が起きているのが本当かどうかでもパニックになっている。けれど政治家一人が被災地に行ったところで物流が滞るなんてことはありえない。おそらくは政治家の振る舞いによって一般人も被災地に行ってしまわないかという予測によって不安になっているのだろうけれど、人々がどう動くかわからないと考え不安になることがまさにエリート・パニックの典型なのではないだろうか。第三者がその領分を超えて当事者の気持ちを代弁する。そうしてパニックが拡大していくことになる。

 

同じように、エリートパニックは言論としてもしばしば確認される。象徴的なのが「早く日常を取り戻してほしい」というものだ。どのメディアでもしきりに言われている。みな日常を願う。しかしその度合いは得てして安全な場所にいる人々のほうが強いものとなっている。東日本大震災の時もそうだった。メディアでは「絆」という言葉が強調されていた。しかし当事者にとって見ればそんなことは言うまでもないことなのである。困ればみんな助け合う。そこに絆は「勝手に」生まれる。日常を取り戻すと言われずとも取り戻す「しかない」状態にある。つまり、そんなことは言うまでもないことなのだ。

 

そもそも被災が全面的に悲劇であるというわけではなかったりする。表立って言われることはないが、日常がつまらないと感じている人にとってみれば災害によって高揚感を得ることだってあるだろう。子供にとってみても避難所の体育館で友達と夜を過ごすのはある種楽しい出来事だったりする。災害はある種のカタルシスをもたらすことがある。しがらみの多い生活を送っている人にとってみれば家も会社も潰れてすっきりしたという人も中にはいるだろう。

しかしながら「こちら側」が被災を喜劇として見ることは許されていない。被災地は大変だろうと考えなければならない。換言すれば被災者の多様性をある意味では認めていないという風にも言える。被災は悲劇であるという先入観を持って相対し、被災者はパニックになっていると考え、日常を取り戻してほしいと言う。しかしながらそうした言説が喧伝されるのはこちら側(エリート側)がパニックに陥っているに過ぎなかったりするのだろう。被災は「単なる」悲劇ではないし、喜劇でもない。

 

パニックをおこすのは当事者だけではないのだ。特にSNSではいつもそうである。コロナの時もそうだった。第三者が第三者でいられず当事者へ過度に擬態し、代弁し、セキュリティーを張ろうとすること、いつもそれがパニックの源だった。

 

無論、亡くなった人や遺族のことを考えれば、災害はユートピアを作り出し人々の連帯を取り戻すなんて言うこと自体が憚られるし、そんな単純な切り口で見ることはできないけれど、同じように災害は悲劇であるというのも単純過ぎやしないだろうかと。

けれどやはり、そうは言っても日々増えていく被害者の数を見ていると、そんな抽象的な話に意味なんかないよなと突きつけられるのも事実で、なんというか当たり前のことだけど人が亡くなるというのは殊更重いものなんだよなと・・・

*1:(ちなみに今日におけるリベラルエリートがハラスメントであったりポリコレのような概念をしきりに喧伝しているのも統治手法のひとつに過ぎないと個人的には思っている。)