メロンダウト

メロンについて考えるよ

だから僕達は失恋をやめた

失敗は失敗として捉えるのではなく成長ネタとして捉えたほうが良いという記事を読んだ。

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職務効率的な意味で言えば完全に同意するのだけど、疑問がないわけではないんですよね。
 
失敗を失敗として捉えるのではなく成長ネタとしてストア(貯蔵)するというとストア哲学を思い出すのだけど、こういう言説にはどこか違和感を覚えてしまう。ストア哲学は随分昔に齧った程度なので概要しか覚えていないけれど、ようするに外部世界におけるどうしようもないこと(環境要因)と自らができること(処理可能なこと)を峻別することが基本的な理念となっている。上記記事の例で言えば過去の失敗を変えることはできないため、自分にできることは失敗を成長ネタとしてストアするだけとされる。目的を内部化、つまり自分で処理可能なことにコミットメントを限定するのだ。たとえばサッカーの試合で勝つことを目的とするのではなくベストを尽くすことを目的にするのがそれにあたる。
似たようなものにアドラー心理学がある。アドラー心理学では怒りについて目的化をベースに論じていて「怒っている人はあなたを屈服させる目的がある」というメタ化を施すことで怒っている人を外部に切り離すということが書かれている。これもストア哲学同様、外部世界と自己を峻別する心理テクニックであるが、しかし外部世界と一口に言っても僕達個々人もまた外部世界を構成する一人で環境要因でもあるという視座が抜け落ちてしまったのがつまり個人主義化した今の社会なのだろうなと、他方では思ったりするのだ。
 
もちろん外部世界との軋轢、トラウマを克服するために心理テクニックや自己啓発を利用するのは奨励されるべきだと思う一方、こうした心理誘導が正しいとされるのはなにか違うような気がするのである。
こうした話は冒頭記事で書かれてることと議論のフェーズがそもそも違うのでどちらが正しいというわけでもない。なので反論を書きたいわけではない。「心理は誤謬を孕んでいる」という僕なんかの手には余る問題について書いていきたいのだ。
 
 
上記記事に書かれている方法論であったり、アドラー心理学のような個人心理学について最も顕著に表れているのが恋愛だと考えられる。ストレートに言えば僕達は恋愛をやめたのではなく失恋をやめたのだろうと思うことがある。
いわゆる恋愛をコストパフォーマンスとして捉える人が言っていることも失恋で受けるダメージは恋愛で得る享楽に釣り合わないということであるし、恋愛工学に傾倒しているナンパ師なども女性を感情的な客体としてではなく獲得物として見ることで失恋感情を失くすことに主眼を置いていると見ることができる。あるいはマッチングアプリなど事前のマッチングに特化した恋愛の方法もようするに「失恋しないようにその事前性を担保」しているとも言える。
 
どのような恋愛にしろ自由恋愛につきものの失恋をいかに回避するか、そこに重きが置かれているように見える。失恋を外部化し実存からいかに切り離すか。そこに今日の恋愛を貫く心理があるように思うのだ。
 
一般に無目的な関係性のすえに恋愛が始まり、恋慕が生まれ、自己と切っても切り離せない関係性を構築すれば失恋した時に尋常ではないダメージを受けることになる。その意味で自由恋愛とはほとんど自傷行為に近いわけであるが、そうした自由恋愛本来の失恋感情から逃れる方法が恋愛工学やマッチングアプリなど自己と他者を目的的に繋ぐものなのであろう。
恋愛工学では女性に感謝することは奨励されているものの、そこに本来的な意味での恋愛性はない。恋愛工学における女性はビジネスパートナーのような関係であり、営業をかけた相手が自社と契約してくれるかという、ただそれだけのものだ。こうした考え方はアドラー心理学同様、外部世界を自己と切り離すことで成立するある種の心理テクニックである。ナンパをする、マニュアル化した口上を述べる、セックスをするorできない、できなければnot for meであったという切断処理は失恋とは無縁のものであろう。
マッチングアプリも同様の構造を持っている。自分と相手の条件がマッチングした場合のみ恋愛がスタートする点で「はじめから目的的」なのがマッチングアプリの特徴だと言える。こうしたマッチングアプリの「目的構造」はストア哲学に似ている。自らではどうしようもない失恋を回避するため目的を内部化(事前に最適化)しているのだ。マッチングアプリを使い、運命の人に出会うよう事前に最適化すれば失恋する確率は下がる(ように見える)。あるいはデートで失敗したとしてもそれを成長ネタとして捉え返す(処理可能なことに心理を限定する)ことで失恋を絶望として捉えなくても済む。今回の相手とはマッチングしなかったのだと、無限のマッチング構造そのものに失恋感情をアウトソースすることで、それこそ「成長ネタ」としてストアするのである。
あるいはそもそも恋愛しない人が増えていることも失恋の回避ゆえだと言えないだろうか?
 
恋愛している人もそうでない人も、あるいは結婚している人でさえ失恋をいかに回避するかが自由恋愛市場が席捲した今日の恋愛を貫くテーゼなのであろう。失恋させた人=不倫した人をみんなで叩き、マッチングアプリを開発し、失恋を回避するための心理テクニックを個人がインストールする現代は失恋を忌避するようにデザインされているのである。
自由恋愛が盛んに言われるようになってもう何十年も経つけれど、自由恋愛には失恋がつきものだった。音楽や小説なども失恋をいかに慰めるかということがメインテーゼとして書かれ、歌われてきた。しかしそれを方法論として実装する試みはあまり行われてこなかった。出会い系などは昔もあったけれど出会い系で出会うなんて卑しいことだというのが一般的な意見で、女性と男性は自然に、かつ自由に恋愛するのが理想的だとされていた。自由恋愛が善き恋愛だという価値基準が若い人を中心に、ほとんど宗教のように信じられてきた。
しかし、そんな無秩序な恋愛が行われれば行われるほど失恋も増え続けていった。ロマンティックな恋愛をみなが渇望することで、それを失った瞬間、手痛い失恋感情をみなが引き受けなければならなかった。その結果ロックからポップソングまでが失恋に彩られていったのがかつての恋愛を取り巻く状況だったのであろう。
そして今、僕達は失恋をやめた。いや、やめようとしている。恋愛は自由恋愛の残滓をまといながら目的的なもの、つまりできるだけ失恋の少ない方法へと変化していきつつある。
 
しかしながら問題は少子化である。みなが失恋を引き受けなくなった社会ではマッチングに成功した人しか子供を生まず、少子化が進行する。少子化については様々な議論があるけれど、ここでは経済学を持ち出して上述した心理構造をミックスして書いてみようかと思う。
経済学に合成の誤謬という言葉がある。これは個人の心理と社会の関係にも当てはまる。合成の誤謬とはなんのことはない皆が知っていることで個人が収入を貯蓄に回せば回す(ストアする)ほど経済全体は回らなくなるというミクロ経済とマクロ経済の矛盾を指摘したものである。これを個人の心理構造とマクロな社会とに当てはめると次のようなことになる。
すなわち個人が目的を内部化及び最適化し、失敗や失恋を成長ネタとしてストアしようとすればするほど社会全体は回らなくなる。
失敗も失恋も個人として考えれば(心理的・物理的両面において)回避することが望ましい。自己と他者を峻別し、マッチングアプリのように目的に特化した恋愛をするほうがリスクが少ない恋愛の仕方である。しかしながらそうした振る舞い(目的の内部化)を全個人が行うようになれば社会全体のダイナミズムが低下していくことになる。そもそも「人に望まれる人」はそこまで多くないからだ。市場が目的的なものに変化していけばプレイヤーは限定されていく。個人が目的を内部化し、コミットメントを限定するように市場もまた目的を内部化し、コミットメントできる個人を限定していくのである。マッチングアプリにおいても不適格な個人は限定され、疎外されている。そしてそれは個人の心理にも跳ね返ってくる。多くの人は恋愛が目的的なものになればなるほど「自分は彼・彼女の目的たりえないな」という事前の心理を内面化するようになり、プレイヤーの全体数は減っていく。市場もそれを良しとする。
目的を内部化し、コミットメントを限定することが個人を行動させるというストア哲学のそれは一見するとアクティブな哲学に見えるけれど、目的を内部化する社会になればなるほど「目的外の人間」がプレイするグラウンドはなくなっていく。そしてプレイヤーが限定されれば婚姻件数も減り、少子化になり、社会全体が困窮することになる。恋愛している人だけが恋愛しているわけではない。みなが失恋を回避する恋愛市場においていまや恋愛しないことが最も恋愛的な振る舞いなのであろう。
 
成長ネタという考え方は甘美なものではある。そして実際にそれは正しいことだとも思う。自らの失敗を成長ネタとして捉え返すことで次はその失敗をしないようにすることは完璧に正しいものだ。しかしながら、そのような心理構造が逆説的に影を落とすのが失敗がつきものの恋愛などの場面なのではないだろうか?と、個人的には思ったりしたのだった。