メロンダウト

メロンについて考えるよ

ひろゆきさんと合理的無知の合理性について

ひろゆきさんのフォロワーは文章を読めていないという記事をシロクマさんの記事経由で読みました。

 

界隈で狂人として名高い小山さんの記事

note.com

 

すこし前にもひろゆき論が話題になったことがある

websekai.iwanami.co.jp

 

 

ひろゆきさんの言説に関しては「ひろゆき論」で書かれている通り、自己最適化ライフハックにその骨子があるのでしょう。

ネット上の反ひろゆき的言説を眺めていてもひろゆきさんの言説はある種の軽薄さをまとったものだと言われることが多く、実際に切り抜き動画を見ても当意即妙さに主眼を置きすぎているのか問題を解決するよりも片づけているといった印象を受ける。処理スピードが並みの人のそれではなく、普通だったら躊躇するような言説(たとえば「頭が悪い」など)もまったく躊躇うことなく述べている。そうした「処理論」が遅々として進まない民主主義にたいしてクリティック(批評性があるよう)に映るのだろう。

ひろゆきさんの快刀乱麻的な言説を見ると頭が良い人なのは確かだと思う一方、はたしてその処理スピードにどこまで読者はついていけて、あるいはついていって良いのだろうかという疑問が出てくる。当然ながら個々人が持つ能力やバイタリティーはそれぞれ違い、誰もが知っている通り、仕事が早い人がいれば遅い人もいる。読解能力だったり論理的推論能力も違うし、もっと大っぴらに言えば小山さんも書かれている通り文章が読めない人もいる(日本人の三割は日本語が読めないとも言われている)

そのような読者とひろゆきさんのようなインフルエンサーとの間には溝が生まれてくる。

 

そしてその溝を埋めるための判断指標として頼るのが「権威」であると思われる。インフルエンサーに盲従する人もそうだが、ひろゆきさんのことを権威と見なすことで「論破王と呼ばれているひろゆきさんが論戦しているのだからひろゆきさんの勝ちである」という、一見すると意味不明な権威主義トートロジーによって文章を読まないで判断する人が一定数出てくる。

 

 

しかしながらこうした「文章を読まないで判断する」というのは何も日本語を読めない人に限ったことではないことにこの問題の根の深さがある。

ネット社会になって以降、情報(広告やコンテンツ)が氾濫するようになったため、僕達はその溢れかえった情報とどう接するかをかなり差し迫った問題として突きつけられている。その解決策として出てきたのがたとえば映画を倍速で見ることであったり、タイパやコスパなどのフレームを構築することで漫然と情報に触れることを回避することだ。または、逆に「デジタルデトックス」「インターネットやめろ」「ミニマリズム」など情報を遮断すべきだという言説も盛んに言われるようになっている。そしてネットによって加速したスタイルの最たるものが「フォロー」であって、その先に合理的無知(文章を読まない)がある。

合理的無知は政治における「投票」に見て取れるもので、有権者にとって候補者の政策や理念を調べて投票することはその労力と比べてパフォーマンスが悪い。一票は小さすぎるからだ。しかしながら投票という意思表示をしなければ政治が腐りかねない。ではどうするかと言えば有権者は調べないで投票することが合理的選択になる。つまり「政策を読めるのに読まないで投票する」のである。もしくは、そのような「悪」に耐えかねる人は鍵括弧をつけるためにフォローしているメディアや言論人の言葉を鵜呑みにする。それが合理的となる。

こうした合理的に無知な選択をすることは投票に限ったことではない。どうやって情報を処理するかは全市民にとって喫緊の課題となっており、そのような状況の中で出てきたのがインフルエンサーという「処理の代行者」なのであろう。どの化粧品が良いか、どの飲食店が良いか、どのレシピが良いか、どの予備校が良いか、どの会社が良いか、どんな異性が良いか、どの政党が良いか、といったことを日々ネット上で喧伝している人がたくさんおり、そうしたインフルエンサーに判断を委託すれば莫大に膨れ上がった情報の海で迷わずに済む。インフルエンサーのファンは文字通りファナティック(狂信的・無知)になるためにこそインフルエンサーをフォローする。狂うことにこそ目的があり、インフルエンサーはそれを繋ぐ媒介に過ぎない。

そのような状況下にあっては、何を言うか、あるいはどう言うかというのは単なるセグメント上の差異に過ぎず、インフルエンサーの能力として求められる最大のものはどれだけその処理スピード(パフォーマンス)が速いのかであり、その条件に合致するのがひろゆきさんなのであろう。

 

「僕達は文章を読めなくなったのではなく合理的判断として読まなくなったのではないか」

それがこの記事で書きたいことだ。

僕個人もネット上で流れてきた記事をもはや逐一読んでいない。いつも読んでいるブログやnoteの記事などは全文読んでいるけれどそれもその書き手さんにたいし権威を見ているからであり、その点では僕もひろゆきさんのファンと大差ないように思う。もちろん完全に盲目なわけではなく、変なこと書いてるなあと思うことはある。けれど変なことを書かない人のほうが信用できないと思っているので変な文章に感じた時は裏読みするか、そうでなければ読み飛ばすことにしている。こうした良いとこ取りの読解もある種の権威主義であり、あまり推奨されるべきものではないのだろう。

ただ、原風景的に言えばインターネットはもともとはてきとうなことを書く場所であったという記憶があるので、てきとうに書いて、てきとうに読んで、てきとうに流れていくのが良いのではないか、なんてことを思うのだけれどこれだけ情報が膨れ上がるとてきとうに「すら」読めなくなっているのではないか、なんてことを思った次第です。

 

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