メロンダウト

メロンについて考えるよ

「ちゃんとしたチャイルドシート」について

こんにちは。本題とは関係ないですが自分のブログをPCのブラウザで開いたら広告がすごいことになってたので数年振りにテンプレートを変更してみました。はてなブログPROが期限切れになっていたのが原因かもしれませんが、PCでブログを読む人もあまりいないと思うので治らなかったら治らなかったということで。

 

さておき、この前、知人の出産祝いでチャイルドシートを購入する機会があったのですが、その時に感じたことを書いていきたいと思います。

 

なんというか子供にたいする視座は「こういうことか」と考えずにはいられなかった。

チャイルドシートを送る時にはじめに考えることは「子供の安全に関わるものだから生半可なものを送るわけにはいかない」だった。安全基準をクリアしたものであることはもちろん、男の子か女の子かで色はどうするか、サンシェードがあるものかないものか、座席だけ取り外せるものかどうか、などなど。いろいろ考えることが多かった。まして出産祝いとなるとメルカリで中古品を購入するわけにもいかず、結果としてまあまあな値段がする商品を購入しプレゼントすることになった。というか、「そうする以外になかった」。

そうする以外になかったと言っても嫌々送ったとかそういうことではないし喜んでくれたので送って良かったのだけど、それとは別に他人の子供の安全を考える時、僕達は「ちゃんとしたチャイルドシート以外」を送ることがはたしてできるのだろうか。そんな疑問が浮かんできてしまった。

 

チャイルドシートの安全基準は10年程前に変わっていて、設置する車もISOFIXというチャイルドシードを設置するアタッチメントの搭載が2016年から義務化されていたりと色々あるのだけど、旧式のシートベルトで固定するチャイルドシートを送ってもし事故にあったらどうしようとか、サンシェードがないものを送って子供が知らない間に熱中症になったらとか、いろいろ考えるとできるだけ良いものを送るしかなかった。

この「子供にたいしてできるだけ良いものを用意する以外にない」というのはいかにも現代的だなと感じた。

 

そして子供にたいしてできるだけ良いものを用意することはチャイルドシートに限った話ではないように思う。

聞くところによると今の子供は幼少期から英語に触れ、情操教育を受けていたり、小学校低学年からSAPIXに通い、中学受験する子供も珍しくないみたいであるが、おそらくそのような教育を子供に与えている親も「そうする以外にない」のではないだろうか。ちゃんとしたチャイルドシートを用意する以外にないのと同じように子供にはできるだけ良い教育を与える以外にない。公立の小中学校に入れていじめに遭ったらどうしようとか、幼少期に文化芸術に触れさせなかったせいで文化資本を持たない大人になったらとか、諸々考えることがあるけれど、そうしたリスクを勘案した時に親にできることは子供の役に立つものはできる限り用意する。そんな結論にならざるを得ないのだろう。

 

教育だけでなく食育であったりもそうだが、しかして、一見すると子供のことを考えているこの価値観は手放しに賞賛できるものではないようにも思う。

なぜなら、子供にできる限りのものを与えようと考えれば、できる限りのものを与えられるまで出産を控えようとする人が出てくる。そう考える人が多くなれば、晩婚化の末、社会全体では少子化が進む。少子化が進めば人口ピラミッドが歪になり子供が大人になった時に支える高齢者の数が増え、結果として生まれてくる子供達(将来の現役世代)の負担が増す。

ミクロで見ればできる限りの準備をして子供を産むという選択が合理的かつ倫理的だとしても、マクロではその限りではない。むしろ若いうちから子供をてきとうに産んで、てきとうなチャイルドシートに座らせ、てきとうな教育を受けても良いと考えたほうが、人口が増え、高齢化を抑制し、てきとうに働いても社会を支える生産力を維持できるようになる。経済成長が人口動態とリンクしていることからもわかるように、社会全体で見た場合、個人の生産性よりも人口増による供給と需要の増加によって市場が拡大するほうが経済的なインパクトは大きい。

 

もちろん当の親にとってみれば子供は社会の成員である前に家族であるので、マクロには云々という話は二次的なものに過ぎず、子供がどうしたら幸福になれるかを第一に考えるほうが自然であるし、そう考えるべきだと思う。

ただ、問題はその考えだと人口が増えないことにあって、そのズレをどうやってすり合わせていくのかが問題なのだが、どうすれば解決するのかは僕にはよくわからない。

 

すくなくとも、車に乗るときはちゃんとしたチャイルドシートよりお母さんお父さんに抱かれていたほうが子供も安心するはずではあるので、ちゃんとしてるのかてきとうなのかは当の子供にとってみれば本来そこまで重大な問題ではないこと。それよりも自分を見てくれているかどうか、気にかけてくれているかどうか、それだけが重要で、チャイルドシートがてきとうなものかちゃんとしてるものかどうかなんてどうでもいいということ。

時に子供本人ではなく子供の「先」を見すぎてしまう大人にとって、それ(愛情)を忘れないでいることぐらいしかできることはないように思う。