メロンダウト

メロンについて考えるよ

フルベット型キャンセルカルチャーの果てに

草津metoo事件と呼ばれる事件があった。

草津町議が「町長から性的被害を受けた」としてSNSにて糾弾、元町議の告発に同調する形でフェミニスト団体や文化人に一部アカデミシャンが草津町長へのバッシングを行ったものの、被害そのものが確認されず嫌疑不十分として不起訴になった事件である。

その後、今年10月に告発を行った側の元町議は名誉棄損及び虚偽告訴の疑いで起訴されることになった。

「草津バッシング事件」の教訓…「推定有罪」に疑問を抱かない人びとの恐ろしさ(御田寺 圭) | 現代ビジネス | 講談社(1/8)

 

そもそもなぜ被害実態がなかったにもかかわらず元町議の発言をもとに町長を糾弾しようとしたのか、その動機からしてよくわからないものの、今回の件から得るべき教訓は「(仮にそれが被害に見えるとしても)赤の他人を簡単に信じてはいけない」ということだろう。ものすごく普通のことではある。

 

metooに端を発する形で個人の被害感情を汲み上げソーシャルスクラムを組み加害者と思われる人物を糾弾する事例は、枚挙に暇がなくなっており、もはや日常になりつつある。

ゆえんこうした現象はキャンセルカルチャーと呼ばれ、リベラル派の行き過ぎた正義感による「執行」だと見なされているが、リベラルだけが間違いを犯すわけではない。

古くはスマイリーキクチさんへの中傷被害事件などもあった。詳しくはwikiのリンクを貼っておくけれど、この事件も「不確かな情報によりひとりの人間を社会から排除する」ものだった点で、現代のキャンセルカルチャーに類するものだと言ってかまわないだろう。

もっと古く言えば「騒音おばさん」の事件も似たようなものかもしれない。

また、政治的なものではないが、昨今のあおり運転加害者へのバッシングもそうだ。一見すると正当な批判であるかのように見えるが、法治主義を超えた誹謗中傷が散見される点ではキャンセルカルチャーやソーシャルジャスティスの枠を出るものではない。

正しい批判だから許される、と考えていたら痛い目を見る。そうした事例が後を絶たない。

 

僕たちは日々インターネットに接し、時には批判をしているが、批判が事実の上に立脚している限り、その事実が反転すれば批判は誹謗中傷へと即座に転化する。その罠に陥ったのが草津metoo事件におけるリベラル・フェミニストなのだろう。

metooのような具体性が高くナイーブな側面がある性的被害・加害事件を抽象的な正義感によって断罪すると、具体的事実が反転した瞬間に、その抽象性まで一気に瓦解してしまう。正義のつもりだったのにやっていたことは結果的にただの誹謗中傷だったという草津metoo事件の顛末は、リベラル・キャンセルカルチャーの暴走という側面も多分に含むと思うけれど、本質的にはむしろ「具体的事実の反転可能性、あるいは可逆性にたいする戦慄の無さ」が主因ではないだろうかと愚考している。外部からはよくわからない事案にたいし、断片的な情報によってのみ判断してしまいがちであるが、そもそも外部からわかることはたかが知れている。僕たちはそれをしばしば忘れてしまう。それを最もわかりやすい形で示しているのが草津metoo事件なのであろう。

 

無論、こうした話は女性の人権を絶対的上位に据える昨今のリベラル勢力の考え方(事実への興味の無さ)と地続きとも言えるけれど、価値観と事実を混同すると事実について興味を失くし、事実が二次的なものになってしまい、自らの主張を通すために事実を切り取るという方法に溺れてしまうのだろう。metooが盛んだった頃には「女性が被害を訴えた→連帯して助けなきゃ→加害者にたいする糾弾」と直列に繋がれすぎて「摩擦」が起きなくなっているように見えていた。摩擦が起きないから事実を確認するまでもなく滑らかにキャンセルカルチャーにまでいってしまう。その速さが問題で、摩擦の無さが思考そのものを吹っ飛ばしてしまうのだろう。

 

 

しかし、こうしてキャンセルカルチャーを批判しているけれど、自分だって例外ではないと思っている。個人的にこのブログではもう特定個人の名前を出して批判したりすることはしないようにしているのだけれど、なぜかと言えばキャンセルカルチャーのような話は決して他人事には見えなかったりするからだ。下手すれば自分も草津町長をバッシングする側に回ったり、あるいはこんな個人のブログでも差別や誹謗中傷だとして炎上し開示請求をかけられるかもしれない。そういう時代である。

僕が抽象的な話に終始するのはそのような理由でもある。先の記事にたいするコメントでもこのようなものがあったけれど

フェミニズムと愚かさと森保JAPAN - メロンダウト

いったいどこから視点なんだろう。実際フェミニズムに観客席はない。

2022/11/30 07:17

b.hatena.ne.jp

こうした反応が理想的だと思っている。どこにも与しないし、どの数の一員にもならない「どこから目線かわからない謎の文章」というのが今の時代を考えた時には、ある意味で理想的なスタンスだと考えている。

 

 

話がそれてしまった。

上記記事で御田寺氏が指摘しているように、リベラルが行き過ぎた正義感によってキャンセルカルチャーを行使しているという点については確かにそうだと思う一方、何が正しいことなのかという前提を持っている限り勧善懲悪を行いたいという「欲」からは誰も逃れられないようにも感じている。インターネットはもともとそういうものだ。リベラル云々関係なく、インターネットに対峙した時に誰しもがキャンセルカルチャー的な断罪感情を持ってしまう可能性がある。

戒めとして書いておくとその時に何が悪かと早急に判断しフルにベットしないことが大事になるのだろう。謝る余地や躊躇を持ちつつ、それでも許せないという覚悟があれば、政治的プロセスを経てキャンセルするというのも場合によってはやぶさかではないかもしれない。今話題の暇空氏の件などはそうしたとことんまでやる覚悟が見え隠れする。

しかしすこし前のmetooムーブメントやキャンセルカルチャーを行使するリベラル派にそのような覚悟があるようには見えなかった。むしろこの上なく主張を軽くし、皆でソーシャルスクラムを組みSNSでスケールすることを目的としており、「カジュアルに人を断罪する」という最悪の事態になっていた。そのカジュアルさや軽さにこそ問題の根があるのだろう。

この意味でキャンセルカルチャーの本質的問題はリベラルという党派性でもなく、またキャンセルという方法論及びその帰結でもない。問題の本質はカルチャーという言葉が持つ軽さにある。その軽さが責任感をふっとばし、どこかフィクショナルで、さらにはおしゃれな印象を与えてしまうが、やっていることは一人の人間を社会から排除するというこの上ないほど血に塗れたものである。

社会的弾劾裁判とでも名称を変えればいくらかマシになりそうなものであるが、いずれにせよmetooやキャンセルカルチャーというとなにかおしゃれで最先端のアップデートみたいに聞こえる。その軽妙さには警戒したいところである。

軽さ(無邪気さ)により行使されるフルベット型キャンセルカルチャーの結果は断じて軽いものではない。そしてその「軽さ」に次に捕らわれることになるのは自分かもしれない、ということは留意しておくべきなのかもしれない