メロンダウト

メロンについて考えるよ

ジーク・イェーガー万歳

これだけどあながち間違ってるとは思えないんですよね。というか間違ってないからこそやばい話のような。「精神を鍛える」だけはよくわからないけれど。

 

 

いやまあそりゃ女性は下方婚しない。したとしても人格に年収が追い付いてない性格的に良い男性とだったりする。

それはまあ事実なんだろうし、実際のところ昭和の家父長的な家族では家庭の中で収入が平均化されててそれがセーフティーネットになってた。今は収入が高い人同士で結婚して世帯ごとの格差が広がっている状態だしそれがまずいことだといえばそうなのかもしれん。

しかしマクロにまずい事態だからミクロな個人の行動を制限するってのはかなりの悪手だと言える。双方にとってメリットがあることでないと思想的なデザインとしては失敗だ。

男性が働いて女性は家にいてといったような昭和のモデルは女性の寛容さに依存していた部分が大きい。女性は働かないで家のことをして生きていくことを多くの女性が受け入れていたし社会全体としてもそれが「結果として」機能していた。だから人口が増えた。しかしその女性の寛容さに依存したままではいられなくなった。自由主義個人主義が台頭してくると全員が平等に働く権利を有しているといった思想的な建付けがなされた。

そうなると女性は家にいろと言うことはできなくなる。個人の行動を制限するのは自由や人権に反するのだから。

 

ここで僕が思うのはしかし自由や個人を尊重しながら家父長的なモデルを維持することができなかったのだろうかという点である。そういうモデルを採用しようと言うのが差別的なのかもしれないけどそう意固地になるような話ではない気がしている。

つまりマジョリティー(あるいはマクロな社会)のための規律的思想(家父長的社会モデル)と個人がもしやりたいことがあるのならそれを尊重する思想はそんなに相いれないものなのだろうか。わりと同時に存在しうるものだと思うけれど。

そう思うのは単純に家父長的な村社会で生きているようなおっちゃんおばちゃんがテレビを見て芸能人の個人主義的な奔放さを笑うことは良く見られることだからだ。そんなに難しい話ではない。

 

社会全体では家父長的なモデルが支配的であってもいいし個人でやりたいことがある人もそれをやれる社会であればいい。

そう考えるといま問題となっているのは何かをマジョリティーとして存在するのを許さない考えに見える。社会の大多数にとって規範となるべき思想は多様性や個人主義の観点からその存在を許さないし、実際に許してない。

「男は働いて女性は家にいるのが当たり前」はひどく差別的に響くが、そう考えている人がそうではない生き方はダメだと言っているわけではない。それが当たり前だと考えているけれど同時にそうではない個人も尊重しているはそんなに特殊な思想ではない。

しかしこのような「女性は家にいるのが当たり前」を聞いた時に僕達は反射的にそれは自由主義にたいする反逆であり差別だと言う。それが話をややこしくしている気がしてならない。

両者はそれほど相容れない思想ではないと僕なんかは思っているのだけど・・・

 

マクロな観点からいえば人口維持や経済格差解消のため家父長的な家族モデル(あるいは家母長的でもいい)を採用すればいいし、個人主義者は個人主義的にマクロなことは気にしないで自由に生きればいい。そのマクロなモデルが個人の生き方を阻害するようであればその時はその具体的な事柄にたいして批判すればいい。

この世界は自由だけで回るようにはできていないし逆に自由がなくて回るようにもできていない。

保守であったらリベラルでいけないなんてことはない。差別的であることと差別しているを峻別する必要がある。ざっくりとした感覚で差別だと言うことはおそらく間違っている。なぜなら差別だと言った瞬間にマクロなデザインを描くことを許さなくするからである。

 

案の定、上記ツイートをしたすもも氏も差別だと叩かれているみたいで

確かに「女性の高学歴化を抑制する」なんてのは差別的だ。というかこれはまあ差別か。

しかし少子高齢化の解決を達成目標に人間を駒として配置し、方程式を組めば昭和の家父長的なモデルを復権させようとなるのは論理的でもある。女性が下方婚しない限り、性差をつけて均整をとるしか人口維持の方法はないのだから。それが差別的だと言えばそうだが現状の結婚制度のまま少子化を解決するにはそこに言及しないわけにもいかない。しかし単に女性を抑圧するのは完全なる悪手である。

なので上述したようにダブルスタンダードをとればいい。個人で好きに生きたい女性も尊重するけれどマクロでは人口もやっぱり大事なので家父長的な制度設計も採用しますよ、と。

あとは結婚制度自体を変えて一夫多妻制にするかフランスみたく事実婚でも手当てを受けられるようにするかぐらいしかない。

法的にも縛られる一対一の結婚制度を維持しながら不倫もしてはいけなくそれでも人口を維持したいはもう不可能なわけで。

 

あとは別の問題としてそもそも少子化が問題だと考えている人って本当にどれだけいるのかっていう疑問がある。子育てしにくい環境を批判する意見はすごく見る。保育園落ちた日本シネもそうだし最近のシングルマザーの記事もそう。我が子が育てられないは大問題で解決すべきだけどそれと少子化問題は実のところあまり関係がないように見える。保育園の待機児童問題も保育園がいっぱいなのは子供がいっぱいいるからでそれは喜ばしいことだと少子化の観点からは考えられる。しかしあの記事に「子供がいっぱいいるんだから良いこと」といった趣旨のコメントは見られなかった。

シングルマザー問題も男性は離婚を繰り返して多くの女性と子供を残したほうが少子化の観点からは肯定的にすら見えてしまう。

個人の境遇が個々に出てきてそれ自体は大変に問題だなと思うのだけど少子化問題を実際に自分の身を切ってまで解決すべき問題として考えている人ってどれだけいるのだろう。少子化に限らずマクロな課題を達成するには個人には負担を強いることになる。すもも氏の言っている女性が変わるべきといった論もそのひとつだろう。すもも氏の言っている解決策に正当性はないと思うけれどあれが差別だと切り捨てられることもまた問題だと僕なんかは思っている。

保育園も子供がたくさんいたら入れる確率が下がる。保育園を増設するにも税金がかかる。教育も子供手当もなにもかも不確定な将来への投資といえばそうである。

何も犠牲にしたくないけど少子化は解決したいはもう無理ではないか?

進撃の巨人7巻よりアルミンの言葉を借りると

何も捨てることができない人には何も変えることはできないだろう

 

でももう少子化どころか日本自体が問題になっていないのかもしれない。

進撃の巨人的に言えば壁が崩壊しても翻訳デバイスやリモートワークのおかげで壁の外で生きることができるようになったわけで日本がダメになっても海外で生きるみたいに考えてる人がエスタブリッシュ層にかなりいそうだ。

そうなると我々エルディア人は安楽死するしかないのである。

ジークは世界を救う神でありますので(イェレナ並感