メロンダウト

メロンについて考えるよ

怒りが適切的発露に限定された結果としての非モテ論

非モテ論についてだけどこれほど論理的に話さなければいけないほどのものなのか?という疑念が常にあるのだ。いつから恋愛は恋愛をやめたのだろうかと。

モテる人とモテない人に分断されると当然ながら社会不安は増大する。自分にはパートナーがいないのにあいつは幸せに生きていてと嫉妬するのは当たり前の心の動きであるが、そんな当たり前の感情を当たり前に発露することができないのが現代社会の歪さではないだろうか。そんなことを思う。

嫉妬や怒りや不幸をそのまま発露することは社会的には非礼だとされ、未熟な人間だと軽蔑される。アンガーマネージメントだったり自己管理能力といった言葉が取りざたされており、それを身に着けることがまるで良い人間であるかのような風潮があるが、それらの能力が重宝されるのは逆説的に社会がそういう人間(怒りや嫉妬をコントロールできない人間)を許さなくなっているからだろう。理知や道徳を社会に敷衍したことによってそうではない人々が狂人扱いされる。非モテに怒りくるっている人間の存在そのものをこの社会はもはや許容しえないのである。だから怒りは自分で管理しろという変な話になる。

しかしそうやって社会的要請に従って怒りをコントロールすることはひどく間違っているのではないか。あくまで個人的な意見であるが怒りや悲しみなど感情を押し殺して生きているとどこかにひずみが生じてくる。怒りをコントロールすることは社会的に好ましいというだけであってそれが当人にとって本当に正しいことなのかどうかは甚だ疑わしい。

 

非モテであろうとあくまでも理知的にふるまおうと努める。その態度は賞賛されるべきであるが結局のところパートナーがいない自分は不幸だという怒りや悲しみが根底にある。その怒りをそのまま怒りとして放出することが「社会的にできない世の中」なのでその感情に論理付けし、あくまでも理知によって論ずる必要が出てくる。それが非モテが論壇化した主因だと思っているけれど、そうやって論理的に主張しようとすればするほど恋愛から離れていくような気がしてならない。

非モテ論において自分の境遇を言語化してもとても空虚に空回りしてしまう。自分もこうして書いてはいるものの結局そうやって苦しんでも現実になんとかするしかないという結論に着地せざるをえない。恋愛しないという選択をとることができる人はそれでいいと思うけれど、そうではないから非モテを論じている。けれど論じて解決する類の話であればもはやそれは恋愛ではないのだという無意味さも同時に持たざるを得ないだろう。恋愛工学やナンパ術はともかくとしても普通に考えた場合、論理なんてものは現実の恋愛からもっとも遠いところにあるのだから。

 

非モテを論じて社会的なレベルにおいて解決しようと仮定するのであれば政治的な話にまで持ち込んでたとえば不倫や浮気を違法化して違反した場合には禁錮2年などとすればある程度は解決する。モテる男性が刑務所にはいることでそういう男性に女性が集中する今のような状況は一気に終わることになる。あるいは「女をあてがえ」で解決するとも言われているが行政が恋愛に介入して同居させたり、または資本主義的ステータスによって男性には格差が生まれるので資本主義をやめて共産主義を始めればいいとも言える。

しかしこれらはあまりにも非現実的である。人権や個人の自由を侵してまで非モテのために社会を構想しようとするのはあまりにも無理筋な議論であって、だからもちろん誰もこんなことは提案として言い出すことはないわけであるが。

なので結局のところ自分で解決するしかないのだけど、だからと言って非モテ論が社会的に意味がないのかというと違うと思っている。

 

それは上述したように社会が怒りや嫉妬感情をないものとして扱っている現状があるために非モテがモブ化するしかないという状況がある。だから「非モテ男性はモテなくて怒っている」と言うことには意味がある。モテなくて怒っているなどと言うととても幼稚な主張に聞こえるけれども、その程度の幼稚さを包摂できない社会もまた未熟であると言える。というか弱者がその弱者性をそのまま叫ぶことができない社会のほうがおかしいのだから困っている、怒っていると言うのはなにもおかしなことではない。非モテ論壇のようにそこに論理をひもづけしなければいけない状況のほうがそもそもおかしいのである。

 

 

こういった状況は何も非モテに限った話ではない。

たとえば政治について若者に聞いたこちらの記事で

なぜ若者の政権支持率は高いのか 学生との対話で見えた、独特の政治感覚:朝日新聞GLOBE+

 

インタビューを受けた学生が

「政治は時代によって変わって当然、もし来月から独裁的な政権になるって言われたとしても、今はそういう時代なんだと受け入れてしまう、そんな自分がいるんです」

と言っているけれど非モテも学生もなにもかも奇妙に物分かりがいいという平和主義、敗北主義から生じる無力感がすべてを固着させてしまっている現状がある。

なにかに反抗するには相応の理由があるときにしか許されなく、そうではない場合には現状をそのまま肯定する。なんだか嫌だ、なんだか不幸だといった感情的な反抗心は許されなくなってしまった。

恋愛においても経済においてもそうであるが、戦後でもこれほどに格差が増大したのは初めてのことであるのにそれでもまだ形式的なコレクトネスにみなが従っている。非モテ論を読んでいてもそうだ。自由恋愛に正当性があるようにこちら側にも正当性があるという論理的主張に限定されている点で今の社会の内に存在するように見えてしまう。どちらにも正当性があるよねそうだよね多様性だよねですべてが終わって結局は何も変わらない。

そうではないだろうという疑念がずっとあるのだ。

「俺たちは不幸だ」にいちいち理由をつけなければいけないことそのものがすでにおかしなことなのだから。