メロンダウト

メロンについて考えるよ

男性性と理性について

恋愛とか男性性みたいなものってなんなんだろうね。
 
「セックスを求める男性は女性に引かれる、まず男性は女性にセックスを求めるのをやめろ」というけれどそんなプラトニックな関係を築ける人は稀なわけで、恋愛する動機としてセックスがあることは間違いない。よく考えてみれば付き合うという関係性はセックスの同意以上のものではないわけで、人として関係するだけならわざわざそんな儀式めいたことを言う必要はない。直接的に言うと角がたつので回りくどく外堀を埋めてから告白するのが正しいとされているものの、結局のところ恋愛とセックスは切り離せない以上男性が女性にセックスを求めるのは卵が先かニワトリが先かみたいな話でしかないわけで。人間関係が先にきてもセックスが先にきてもとどのつまりセックスするのであればそれは事前の確認作業という意味以上のことではない。
その事前性が多くの人に言い寄られる女性の側にあるため女性が語る恋愛のほうが説得力があるとされるのが今の社会ではある。
 
しかしこういう事前性、選択性こそがまさに現代的というか自由主義的なものなんですよね。自由恋愛の現場においては女性のほうが主導権を得やすく、男性は女性の選択肢に乗ることで恋愛をスタートできる。その選択肢の一番最初の課題が人間関係の構築で、そこをすっ飛ばしていきなりセックスを求めると初手から弾かれることになると。それ自体は当然そうなるよねという感想しかなく、だから女性にいきなりセックスを求めるなというのもそれはそうだろと思う。
しかしながら逆に男性が能動的にならないで恋愛関係に至るのかというと難しい。多くの場合、男性が能動的に動くことで女性がアンサーする形になっており、男性が能動的にならず普通に喋っていても恋愛関係には発展しない。普通に喋っていて女性の側から言い寄られるというのは相当に高密度な時間の共有が必要になるだろう。その時間の共有が最も望ましい恋愛だとしてもそこまで持っていくにはもはや現代社会、特に社会人においてはほとんど不可能であって、そのため男性が能動的になる必要が出てくる。その能動性が女性にとって奇妙な形に見えるのは仕方ないにせよ、男性が能動性を持たない限り多くの場合で恋愛には発展しない。
 
あるいはその能動性自体をやめて恋愛から降りてしまうかであるが、むしろ後者の恋愛をやめている人のほうがマジョリティーなのではないだろうか。一切の能動性を排除して個人主義的なスタンスで相手に侵犯しないでいればごく少数の男性以外はそもそも恋愛することがなくなる。多くの男性は理性を総動員し、性欲も抑え込み、人間関係として女性に接することでモブ化している。現に若い人の多くが過去に類を見ないほどパートナーがいない割合が高いというデータもある。それでもまだ男性性を正そうとしているのだからどこまでいくのかすこし不安になったりする。
 
こういう能動性や理性みたいな話は表裏一体で、男性が男性である以上、性欲からは逃れようがないのでいかに社会生活上理性的に振る舞っていようとも「機会」があればそれに飛びついてしまう。理性的な振る舞いとストレートにセックスに飛びつくというのは表裏一体で、社会生活でそういう欲求を抑えていればいるほどセックスの機会があれば直接的に、拙速に飛びつくことになる。その意味で現代の個人主義社会と非モテ論争は地続きであり、個人主義的で理性的な関係が正しいとされるほど非モテコミットは増加していくことになる。
理性的な社会になればなるほど人は所与の関係性の外に出た時に狂うのである。
 
インターネット上では粗暴な男性によるハラスメントが取り沙汰されやすいが、今問題となってるのはむしろ逆でそういうハラスメントや理性を言い過ぎた結果みな恋愛できなくなっていることだろう。それは男性にも女性にも共通していて、男性の側は理性によって性欲を抑えられた結果「理性的狂人」と化してしまう。普段は理性的に生きているがためにセックスという狂気に魅了されやすくなるし、女性の側もそうした男性の狂気にあてられることになる。正しい恋愛をしろと言えば言うほどに理性を強化することになり、理性を強化することによって狂気も強くなる。
理性こそが狂気をつくる源泉であるにもかかわらず理性ばかりを喧伝し、理性を強化することによって狂気はなくなるのだというのは極めて女性的な考え方である。それは男性からすればほとんど何を言っているのかわからない。理性でコントロールできるものであればこれほど苦しんだりしないのだ。理性によって性欲をコントロールすべきだというのは実存をないがしろにした理想論に過ぎない。それでもなお社会の絶対的な圧力の中で男性は性欲を抑え込んで生きている。そのような矛盾を抱え男性は生きているわけであるが、しかし矛盾を抱え込めばこむほどその矛盾を解消できる手段があれば飛びつくことになる。それが「いきなりセックスを求める男性」なのである。
理性と性欲は相反するものであるが、パートナーさえいればその矛盾が解消されるだろうという期待を持ってして、その関係性を強く欲望することになる。理性を喧伝しても性欲は回避できないプログラムとして人間に備わっている。それを無視して人間は理性的に恋愛すべきだというのが近代自由恋愛であるが、しかしそれを強く言えば言うほどに理性と性欲の矛盾を強化することになり、恋愛が人間関係から離れていくことになる。
 
男性の性欲が極めて非社会的なものだというのは、それはそうだと思う。しかしそれを理性的に抑え込もうと思うほどにあらぬ方向にずれていく。個人においても、そして社会にあっても。
男性の性欲を社会に織り込もうという言説はほとんど言われることはない。男性性は社会から居場所をなくし、それを発散するのは自慰行為であったりマッチングアプリといった社会の外に位置付けられている。しかし当然ながら男性も性欲だけでなく恋愛関係を望む。その望みが普段は押さえつけられているために「いきなりセックスを求める」ことになり女性から引かれたりするものの、それでもなお満たしきれない渇望を抱えているのが男性というやつで
「女性はそれを了解していきなりセックスを求められたら応じろ」などと言うことは断じてできないが、これだけ理性的な社会において男性性の苦悩をどこに位置付けるか、それをすこし考えてみても良いのではないだろうか。