以前に下書きしていたもののですが、話がとっちらかってボツにしていたものを修正したものです(まだとっちらかってるかも)
以前話題になった増田
男女が非対称である以上、この手の話はかみ合わないと思うのでどちらがどうというのを書くつもりはないのだけど
それにしてもこの手の弱者男性女性論みたいなものが出てきたのはなぜなのか、そちらのほうが気になってしょうがない。
結論から言えば個人主義と情報化社会が悪魔合体した結果起きた悲劇のように見える。
僕たちはかつてないほど他人に嫉妬しやすい環境にある。インターネットで情報が開かれ、SNSでは人々の情報がたえず流れてくる。フェイスブックをひらくたびに誰それに彼氏ができた結婚したどうのこうの他人の生活がひっきりなしに情報として飛び込んでくる。友人知人でなくても誰かの生活実態や社会のマクロな推移が必ずはいってくる。そうやって飛び込んでくる情報と自らの生活や境遇を比較することで、幸福か不幸かをある程度定量的に判断できるようになってしまった。その結果、ある人は優越感を得て、ある人は劣等感にさいなまれる。
今更すぎる話であるが、嫉妬こそが情報化社会の弊害だということを思い出すべきではないだろうか。情報に触れ、自己が世界に開かれた瞬間に僕たちは嫉妬するようになる。男性は女性に、女性は男性に、もその一種なのだろう。男性から見れば女性がうらやましく見える。女性から見れば男性がうらやましく見える。男女の非対称性を考慮しないでお互いを「羨望」すれば、嫉妬という沼にはまっていくことになる。「女性のほうが社会的立場が弱いのでつらい」「KKOに比べればたいしたことない」「非モテに女性をあてがえ」「男性の自殺率」等々、口に出すのも憚られるものまで出てくるのが嫉妬感情の恐ろしいところであろう。
こういった嫉妬による負のスパイラルは男女に限った話ではない。経済的な側面、社会的立場など多岐にわたる。しかしながら、どんな対象に嫉妬しようとも、問題は嫉妬している状態そのものにあるはずだ。対象を絞って誰かを敵化しても根本的な解決にはならない。敵がいなくなればまた新たな敵を見つけるだけになってしまう。それでもあえて敵を設定するとしたらそれは男性でも女性でもなく、情報だということをまず念頭に置いたほうがいいのではないだろうか。男女の対立論はあまりにも政治的に語られがちであり、陣営闘争の様相を呈しているが、対立論として語る限り必ず袋小路になる。男女を比較すればどちらがかわいそうかという結論が必ず出てしまうためだ。
そしてその結論にたいして困窮した個人が「そうか、俺の私の困窮はたいしたことはないんだ」と納得するはずがない。このような比較に終始する限り、男女の対立は永遠に終わらない。永遠に「こちら側とあちら側」に分けられてしまう。
つまるところ男女の話やかわいそうランキングについてはその発生源までをも見通さない限り、永遠に解決する種類のものではない。そして、その発生源が何かといえば、そのひとつにSNSがあることはまず間違いないであろう。
SNS社会は原理的に嫉妬を生む構造になっている。情報こそが僕達に嫉妬感情を想起させる。 すなわち、情報といかに対峙するかが最も根本的な議論になるべきなのだろう。
そう考えると、そもそも情報に触れることをやめればいいという話になりそうであるが、それは逆に危険だと思っている。もちろん現在は情報過多の時代なので情報をシャットアウトすることは様々な側面で有効たりえるとは思うが、解決策としては愚策であろう。それほど単純に考えるべきではない。
他人と比較して自分がどういう状態なのかを知るのは社会の中で生きている限り避けようがないし、避けるべきでもない。さもなければ、自分が不幸であることもわかりようがない。わからなければカルトに染まっても、マルチにはまっても、奴隷にされようとも自分が不幸だということに気づかないままになってしまう。他人との比較自体はけっして悪いことではない。情報に触れることもその意味ではセキュリティーとして機能する。男性と女性の話に関しても、比較してどうこう話すのは必要なことであろう。
問題はその比較が「個人のうちに閉じられていないかどうか」にある。
個人と個人を比較すると必ずどちらがかわいそうかという解答が出てきてしまう。個人と個人を比較する限り、その嫉妬感情はどちらがかわいそうかという不等号(男性<女性等)により「決してしまう」。それを解除するためには個人が個人以外の評価軸を持つ必要がある。個人でいる限り嫉妬感情からは逃れようがない。
冒頭に「情報化社会と個人主義の悪魔合体」と書いたのはそのような理由である。
私達は情報により嫉妬感情を想起し、個人主義により嫉妬感情から逃れられないでいる。ダブルバインドされた檻の中にいる。
情報を敵とみなしてシャットアウトすることが不可能である以上、嫉妬感情をなくすには個人の心性を変質させるしかないのであるが、個人主義社会においてそれは難しくなっている。個人主義が蔓延しすぎた結果、僕達はもはや他人を他人としてしか見れなくなってしまい、自己が浮き彫りになってしまっているからだ。
本来、他者という情報にたいして個人で戦うのは無謀すぎるので徒党を組む必要が出てくる。つまり情報的幸福論を上書きできるような関係性の中に幸福論を埋め込んでしまうのが正しい解決策になる。情報を捨てるのではなく情報を「均衡」させてしまうのだ。かなり抽象的な話に見えるかもしれないけれど、難しい話ではない。
結婚している人が嫉妬感情を持ちにくいことを考えればわかりやすい。結婚すればその人の性はひとつではなくなり、配偶者の性も同時に持つことができる(敵化できなくなる)ため、男女という対立軸が「均衡」し、嫉妬という沼から抜け出すことができる。もちろん結婚していてもお互いに他人だと思っている場合には個人に閉じられたままなので結婚していればいいという話ではない。友人関係でもなんでもかまわないけれど、ようするに自らの性と誰かの性を均衡させうるほどにその誰かを大事に思えるかどうかが重要なのだろう。「容易に対象を敵化できない状態」にしてしまえば自己が浮き彫りにならずに済む。
あるいはトランスジェンダーなど、肉体の性と性自認が違う人は個人のうちにおいて男女の対立軸を同時に持てるので均衡を保つことができる。
このような「均衡をいかに構築するか」が嫉妬及び嫉妬を燃料にしたSNSでの誹謗中傷行為にたいする処方箋として考えられるべきであろう。
以上のように考えると、つまるところ分断だけが問題のように思えてしまうのだ。家族や恋愛、人間関係などの共同性がなくなり個人を重視するようになると、個人を「個人以上」へとひらく回路が社会からなくなってしまい、その結果、均衡が崩れているのが今の社会となっている。
ようするに恋愛などをして自分の性以上に相手の性を思えるようになればいいという身も蓋もない話になるのだけど、それもまた個人主義社会では難しくなってしまった。かつてのように共同体が先にあって恋愛が始まっていたような社会ではもはやないからだ。
よくもわるくも恋愛や結婚は共同性の中に埋め込まれていたもので、それを二人だけの愛と言われだしたのはここ最近の出来事となっている。そうなったのは近代個人主義の影響がかなり大きいものであるが、以前はお見合いなどな代表されるように、家族や地縁などの共同性の中に恋愛が埋め込まれていた。その意味で恋愛は「結果的」なものだった。二人が暮らし始め、一緒にいる時間の中で恋慕が生まれ、切っても切り離せない関係になることで愛という結果が生まれる。そういった関係がかなり一般的にあったと見聞きする。というか今でもほとんどがそうであろう。時間の中に愛情が宿るというのは今でもかなり一般的なもののはずだ。昔は共同性がスタートになって関係がはじまり、結果的に恋愛になっていた。
一方で、今は恋愛が個人のなかに閉じられている。その意味で結果的な恋愛は消滅して「運命」としての恋愛しか残らなくなった。あるいは運命に偽装された恋愛しか認められなくなってしまった。運命だと両者が合意し、お互いに見初めあって付き合うようになってから相手方の家族など共同体を巻き込んでいくという順番になっている。
どちらが良いかと言われればそれは運命的な恋愛のほうが良いに決まっているのだが、恋愛が運命的なものである「べきだ」という先入観に社会が染まっていくと、運命として選択されない弱者男性女性が残るという結末になる。そして残された男女は嫉妬感情を持つ。それはとても自然な成り行きでしかない。そうしたメカニズムが個人主義的恋愛市場の弊害であり、その嫉妬感情がインターネットに噴き出し、男女の対立論というテイで議論されているのが今起きていることなのであろう。
少なくない人々はかつての共同的な関係からも見放され、運命からも選ばれず、それでも目の前に情報だけは飛び込んでくるうえに「個人」として生きている。これで他人や男女同士で嫉妬するなというほうが無理な話である。そのような現況下において、インターネットでやりあっているだけとなっているのは充分すぎるほどに理性的とすら言ってもいいのではないか。そう思っている。